島原の乱の原因と天草四郎時貞の最期の様子を分かりやすく解説!

江戸時代初期に九州で起こった最も有名な反乱、それがキリシタンの反乱とされている島原の乱です。

そのリーダーは天草四郎と呼ばれる若い青年でした。

 

戦国時代が終わりようやく平穏が訪れていた時に再び訪れかけた戦乱のきざしに、幕府はどう対応したのでしょうか?

そして反乱軍はどうして四郎のような若者をリーダーにして立ち上がることとしたのでしょうか?

 

今回は天草四郎の正体と島原の乱の全貌について見ていきましょう。

 

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天草、島原地方のキリシタン

天草諸島と島原半島はキリシタン大名であった小西行長と有馬晴信が治めていました。

 

しかし、小西と有馬はともに関ケ原で西軍に属したために領地を没収され、天草には畿内から松倉重政・勝家、島原には寺沢広高・堅高が配属されます。

 

しかし、小西や有馬がキリシタン大名であったこともあり、この一帯では未だにキリシタン信仰が依然強固でした。

そこに幕府の命令による、踏み絵や拷問といったキリシタンの弾圧。

 

これがキリスト教徒たちの反発を招いてしまいます。

 

現在でも九州は本州と比べて独特の文化が未だに残っており、歴史上でも九州の豪族は多くの場合本州から来た政権に対してすぐには従いません。

そうした精神が江戸時代はまだまだしっかり残っていました。

こうして藩主への不満が詰まっていく中、民衆はある青年の噂を聞きます。

 

キリストの生まれ変わり 天草四郎時貞

天草四郎は本名を益田時貞といって、かつて小西行長の家臣であった益田好次の子として生まれます。

四郎は没落家臣の子として周囲の民を比べれば経済的に恵まれ高い教養を身につけ、10代半ばにして名を知られていた存在であったようです。

 

四郎は水上を歩いたり、目が見えなかった少女の目に触れるだけで目が見えるように治療したり、卵が手のひらで孵ったりと様々な奇跡を起こせる神の力を持っていたとされています。

 

 

また、信憑性は低いですが四郎は豊臣秀頼の隠し子であったという説があります。

大坂の陣の際に豊臣秀頼が死なずに九州に逃亡したという説は有名ですが、特に西日本には依然として豊臣家に対する一種の信仰心が残っていたというのは簡単に想像できますね。

 

四郎の旗印があの太閤秀吉と同じひょうたんであったこと、四郎には「豊臣秀綱」という別名がつけられていたとも言われており、大坂の陣からおよそ20年経った当時でも幕府は豊臣家を恐怖に感じていたのは間違いないでしょう。

 

天草・島原の住民は単なる農民ばかりではなく、小西行長や加藤清正・忠広に仕えていた浪人も数多くいました。

奇跡を起こすとはいっても10代の少年である四郎が反乱の実務を担っていたとは考えにくく、おそらくはキリシタン、豊臣家の落胤、地元で評判の小西家ゆかりの生まれという様々な要素から浪人や商人に祭り上げられたのでしょう。

 

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島原の乱の指導者

ある寒い冬の日、島原では年貢が払えない若い女が冷たい川に身を投げて亡くなります。

以前から牢人や商人は旧有馬家の家臣を中心に結託しチャンスを伺っていましたが、この事件をきっかけについに決起します。

 

農民反乱と言っても江戸時代には既に銃がそれほど苦労せずに入手でき、量産技術も既に発達していました。

そのため一揆軍は槍や鍬を持って戦うといった古めかしいことはせず、じゅうぶん近代的な装備をしていました。

 

一揆軍はまず島原にて幕府方の代官を殺害、そして島原藩の討伐軍を打ち破り藩主のいる島原城を包囲します。

 

島原藩には反乱に参加していない集落もあり、藩主の寺沢堅高はその農民を呼び寄せて武器を与えますが、その武器を持って反乱軍に寝返られる有様。

寺沢はよほど人望に欠けている人物だったようです。

 

一揆軍は勢いに乗って攻め続けようとしますが、そこに幕府本隊が近寄っているとの情報が届くと、侵攻を断念して籠城を決意します。

 

こうした様子を見て、天草で機会を伺っていた一揆軍がついに蜂起。

大将はカリスマとされる天草四郎で、その傍には実質的に運営をしている商人や旧小西・有馬家臣、そして浪人達が立っており、その下には藩主の暴政に反対する農民達が槍や銃を持っていました。

 

天草軍はまず富岡城を包囲し陥落寸前まで追い込みますが、そこで同じく幕府軍到来の知らせを聞き島原軍を合流し、籠城を決意します。

 

島原の乱の戦況は当然逐一幕府に報告されており、最初に派遣した討伐軍は大将が戦死していました。

そこで幕府は当時のトップ官僚である老中・松平信綱を総大将とする大軍を派遣することを決めます。

 

この中には戦国時代を生き抜いた立花宗茂や水野勝成といった名将、それにあの剣豪・宮本武蔵、その他戦国時代を経験したことがある大名が数多く参加しており、幕府も相当に本気でした。

 

天草四郎時貞の最期

天草四郎率いる一揆軍が籠城に選んだのは、旧有馬家の居城・原城でした。

原城は当時廃城となっていましたが、断崖絶壁にある天然の要害で防衛には適した立地ではありました。

 

一揆軍は藩から奪った食料や武器を持ち込み原城に入城します。

そして松平信綱率いる12万を超える軍に包囲されると、籠城戦が始まります。

 

幕府軍は正面から一揆軍を迎え撃つことはせず、忍者を派遣して原城の兵糧が決して多くないことを知ると持久戦に持ち込み士気を削ぐことを最優先します。

次に長崎で貿易をしているオランダ商人から大砲を購入し、海と陸の両方から威嚇射撃を行います。

 

こうした幕府の地道な工作の積み重ねで、一揆軍は無駄に食料を消耗するばかりで下手に攻撃に出れなくなります。

やがて食糧が尽きてしまうと一揆軍は断崖絶壁を駆け下りて海藻を海から採って飢えをしのぎます。

 

ある小競り合いの際に幕府軍は一揆軍の死体を解剖。

そこで、一揆軍が海藻しか食べていないことを知ります。

 

城内の食料が底をついていると判断した松平信綱は一気に城を攻め落とすことを決めます。

 

総攻撃が開始されると原城に幕府軍が一気になだれ込み、この戦いで四郎をはじめ一揆軍はほぼ全滅し反乱は鎮圧されます。

 

では、天草四郎の最期はどのようなものだったのでしょうか?

幕府軍は四郎の顔を知らなかったので、複数の少年の首が持ちこまれても、それが天草四郎だと判断することができませんでした。

 

幕府軍には史郎の母親が捕えられていたのですが、本丸で四郎を討ち取ったとされる藩士が持ってきた首を見て四郎の母が泣き崩れます。

その様子から、その首が天草四郎本人のものだとされましたが、実際は小さな頃から知っている少年の首だったとされています。

 

四郎の最後に関しては少し興味深い話があります。

ここからは少し嗜好の違う話になりますが、天草四郎の生まれ変わりとされる美輪明宏さんを霊能力者の木村藤子さんがテレビ番組で霊視したことがあります。

 

その時に見えた天草四郎の最期の様子は、自ら燃えさかる炎の中に身を投じて自害したというもの。

つまり霊視によると、四郎は幕府軍に討ち取られた訳ではなく、幕府軍にも捕まっていないことになります。

 

そう考えると、母親が泣き崩れた時の少年の首は天草四郎のものではなかったという話にも信憑性がでてきます。

 

原城は島原の乱の後に徹底的に破却され、反乱軍の遺体の多くが土中に埋められました。

(最近の発掘調査で首と胴が切り離された遺体が多数見つかっています。)

 

もしかすると、天草四郎の遺骨も、発見された遺骨の中にあったのかもしれませんね。

 

まとめ

幕府の一揆軍による弾圧は苛烈であり、キリシタンはわずかに逃れた者を除き皆処刑、生き埋めという悲惨な目に遭わされています。

近年の研究で発掘されたキリシタンのものと思われる遺骨はみなバラバラであり、その苛烈さが伺えます。

一揆の背景にはオランダと敵対していたポルトガルの支援があったとされていますが、幕府は島原の乱を受けてポルトガルとの貿易を停止しいわゆる鎖国が始まることとなります。

 

一方、事の発端となった暴政を行った寺沢堅高と松倉勝家はそれぞれ改易、斬首となり、藩主としては最高レベルの厳重な処分を下されました。

幕府はそれほど藩主の圧政を重く見ていたのです。

 

これ以後、島原藩は外様ではなく徳川譜代の大名が藩主となること、天草藩は後に幕末まで幕府の天領(幕府が直接支配する直轄地)とすることが決定します。

 

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