力はないけど魅力に溢れたカリスマと天下無双の豪傑という組み合わせは創作話しの定番。

『三国志』の劉備三兄弟をはじめ、『金色のガッシュ』の清磨とガッシュ、『DEATH NOTE』の月とリュークのように古くから絵になる組み合わせです。

 

そして、日本の歴史の中で最も有名なこの組み合わが源義経と武蔵坊弁慶です。

若きカリスマ源義経に従った弁慶とはどういった人物だったのか?

 

今回は、弁慶の史実の姿とよく知られた逸話について見てみましょう。

 

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弁慶って実在の人物?

弁慶はそもそも実在の人物なのでしょうか?

『平家物語』や『義経記』、鎌倉時代の正史に相当する『吾妻鏡』という書物にも弁慶の名は現れるので、実在した人物であることは確かです。

 

ただ、『平家物語』などに名前は出てくるものの、出自や功績については触れられていないので、詳細についてはほとんど分かっていないというのが本当のところ。

私達が知っている弁慶のイメージはかなり脚色されている可能性が高いです。

 

 

義経や弁慶の活躍が描かれているのは「義経記」という書物ですが、義経記が欠かれたのは義経たちが亡くなってから200年も後のこと。

弁慶は一の谷の戦いにも参加していることから武芸は心得ていたようですが、もしかすると現代に伝わっているイメージとはかけ離れた人物だったのかもしれませんね。

 

弁慶と牛若丸が出会った五条大橋とは?

では、次はよく知られている豪傑・弁慶のエピソードについて見てみましょう。

これも創作的要素が強いですが、弁慶の前歴についてはこの様にされています。

 

  • 父は母を強奪して弁慶を産ませた。
  • 母の胎内に18か月いて、生まれた時はすでに2、3歳の体つきで歯が生えていた。
  • 幼くして比叡山に入山するが手の付けられない乱暴者で学問もできず、ついに寺を出奔してしまう。
  • やがて1000本の刀を手に入れることを思いついて武者狩りを繰り返していき、999本まで刀を集めた時に1000人目として牛若丸と出会う。

 

どうして1000本の刀を集めていたのかについてはよくわかっていませんが、弁慶はとにかく手の付けられない反則的な強さを持つ人物でした。

そこにいかにも弱そうな牛若丸が笛を吹きながら現れます。

 

最も有名な物語では舞台は京の五条大橋と言われていますが、当時の五条通は現在知られている五条通とは違う場所で、現在の松原通の相当することから松原橋とする説もあります。

他には西洞院通とする説もあり、そもそもこの決闘が創作の可能性も高いので不確定です。

 

 

さて、牛若丸は腰に立派な刀を佩いていましたが、弁慶はこれこそ1000本目にふさわしいと牛若丸に太刀で攻撃します。

しかし牛若丸は橋を飛びながら巧みに攻撃をよけ、弁慶を返り討ちに。

この敗北を機に弁慶は牛若丸に従うことになり、弁慶は牛若丸から名を改めた源義経とともに平家討伐に貢献します。

 

以上が五条大橋の決闘と呼ばれる義経と弁慶の出会いです。

 

 

弁慶が義経を殴った勧進帳の逸話

弁慶のもう1つの見せ場は勧進帳です。

平家を滅ぼした義経ですが、関東武士の結束を乱すと兄・頼朝から警戒されると、ついに天皇から追討令まで出されます。

これで平家を倒した功労者の義経も、京から逃亡しなくてはならなくなります。

 

頼朝は関東の武士らに義経が関所を通ろうとしたらすぐに捕らえよとの命令を下し、その命令が加賀国安宅関の関守・富樫泰家にも届きます。

そすとそこに、山伏の姿に変装した義経一行が現れます。

 

富樫はもちろん命令通りに彼らの身元を検査します。

実は義経らが山伏として潜伏していることはすでに知られていたので、富樫は当然この一行を疑っていました。

 

この時、疑われた弁慶が勧進帳という巻物を読み上げるのですが、取り出した巻物は実は真っ白で何も書かれていませんでした。

弁慶はそれをあたかも本物の勧進であるかのように読んでみせたとされています。

 

弁慶のこの行動で一行の疑いは晴れ、関所を通ることを許されますが、後列にいた義経を見て富樫は再び疑念を抱きます。

その時、弁慶が突然怒りだし、「お前が義経に似ているばかりにいらぬ疑いをかけられた」といって、持っていた金剛仗で義経を叩きだします。

 

弁慶があまりにもすごい剣幕で義経を叩くのを見た富樫は慌てて止めに入り、これで疑いは晴れたと言って安宅関を通過することを許可します。

 

無事に関所を通過した弁慶は、いかに非常事態とは言え主君に手を挙げたことを涙ながらに詫びますが、義経はむしろこれを真の忠義だと誉めます。

そこに富樫が先の非礼を詫びたいといって酒を持ってくると、弁慶はそれを受けて舞を披露。

その間に義経たちは先を急ぎ、弁慶は舞い終わると義経の後を追います。

 

富樫は実は彼らが義経一行であることをとっくに見抜いてましたが、弁慶の忠義の心に打たれて、わざと見逃します。

 

以上が現在知られている最もポピュラーな勧進帳のストーリーです。

元々は歌舞伎の定番曲として知られていましたが、現在でも原稿をあたかも読んでいるかのように白紙のものを読んでいることを勧進帳といいます。

 

周りにもいませんか、すごくアドリブの効く人が?

史実ではこの間に多くの従者が捕まっていますが、弁慶はどんな物語でも必ず最期まで付き従っています。

 

そして、「弁慶の立ち往生」と呼ばれる逸話に繋がっていきます。

 

弁慶の立ち往生の意味と最期の様子

頼朝の追っ手を逃れて平泉にたどり着いた義経と弁慶。

一時は奥州に勢力を誇っていた藤原秀衡に匿ってもらっていましたが、秀衡がなくなり息子の泰衡が当主になると義経との関係が悪化します。

 

すると、頼朝は義経を討つように泰衡に命じます。

泰衡はとうとう頼朝の圧力に負けて義経に攻撃を仕掛けます。

 

僅かな人数しかいない義経一行は防戦するのに精一杯の状況。

追いつめられた義経は衣川の館にこもって最期の時を迎えます。

 

この時、義経が自害する時間をかせぐために、1人で門の前に立って戦ったのが弁慶でした。

「敵に主人の首を取らせる訳にはいかない。」決死の覚悟で戦う弁慶は、全身に矢が刺さった状態でも戦い続けたとされています。

 

矢が刺さっても目を見開いたまま立ち尽くす弁慶。

泰衡の軍勢はどれだけ矢が刺さっても死なない弁慶に恐怖すら覚えますが、実は弁慶は立ったまま絶命していたのです。

 

立ったまま亡くなった弁慶。

この逸話から「弁慶の立ち往生(亡くなる)」という言葉が生まれます。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

史実の弁慶は奥州まで付き従ったかどうかはわかっていません。

もしかしたら京で義経と別れてそれっきりだったのかもしれません。

 

実はそれほど重要でない人物だったのかもしれない弁慶ですが、後世の人々はそうは思わず義経や弁慶を本当に惜しい人物だと思いその思いを伝説という形で新たに生を与えました。

弁慶というキャラクターは世の期待に応えて生まれた理想の忠臣像だったのではないでしょうか?

 

関連記事→3分で分かる源義経の評価!平泉での最期の様子と生存説を解説!

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