幕末動乱のさなか江戸幕府第14代将軍となった徳川家茂。

歴代徳川将軍の中では認知度が低いとされる家茂ですが、家茂はどんな将軍で、どんな功績があったのでしょうか?

 

今回は徳川幕府14代将軍の家茂の人物像に迫ってみましょう。

 

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徳川家茂の性格や人柄

徳川家茂(1846~1866)は紀州藩主・徳川斉順の子として江戸の紀州藩邸で生まれました。

4歳で紀州藩主となると、およそ9年間藩政を行います。

 

その後、家茂を幕府将軍の座に就けようと動いた紀州派が、一橋派との争いに勝利したことで家茂が第14代将軍となります。

 

 

家茂が将軍となった時代は列強による開国圧力が強まっていた時期で、幕府は、朝廷との連携によってこの危機を突破しようと画策します。

そこで家茂は、孝明天皇の妹・和宮を妻に迎えることになります。

 

しかし、結果的に家茂と和宮の結婚生活は長くは続きませんでした。

 

幕府打倒を狙う長州藩を討つべく行われた2度の長州征伐。

その最中、家茂は陣頭指揮を執る大坂城で帰らぬ人となってしまいます。

 

そして、家茂の後を受けて将軍となった徳川慶喜は時勢を回避できず、わずか1年で幕府は瓦解してしまいます。

 

短すぎる結婚生活 和宮との夫婦仲は?

家茂と和宮が結婚したのは1862年のことで、ふたりは16歳の同い年でした。

家茂が死去したのが1866年なので夫婦としての期間はわずか4年しかありません。

 

しかも、家茂は将軍として難しい問題に直面していたため、実際に夫婦として過ごせた時間はもっと短かったはずです。

では、そんな短い期間の中で、2人の夫婦仲はどうだったのでしょうか?

 

上述の通り、和宮は天皇の妹です。

極めて身分が高いだけにプライドがありました。

 

幕府での生活は、なにもかもが朝廷とは異なり気苦労が絶えなかったようです。

しかし、そんな和宮を癒やし、気遣ったのが夫の家茂でした。

 

家茂は事あるごとに贈り物をして、心細い和宮を励ましたと言われています。

 

その甲斐あってか、歴代徳川将軍のなかでもっとも円満良好な夫婦であったという識者もいるほど家茂と和宮は良好な関係だったようです。

 

幕府ナンバー2の徳川慶喜との仲は?

家茂と慶喜の仲は最悪というのが現在では定説となっていますが、実際のところどうだったのでしょうか?

その手掛かりとなる逸話があります。

 

2度目の長州征伐のため大坂城に入った家茂は病床にありました。

そこに見舞いにやってきたのが慶喜です。

 

その時、両者は幕政や外交、朝廷との関係について話したといわれています。

もちろん仲が悪くても話くらいはするでしょうが、個人的には仲が悪かったというようなことはなく、慶喜は慶喜なりに家茂に敬意を評していたのではないかと感じています。

 

早すぎる死、その死因は虫歯?

家茂が大坂城で死去した年齢は20歳でした。

将軍という立場上、激務が重なり多大なストレスがかかっていたことは容易に想像できますが、あまりの若さゆえ暗殺説を唱える学者もいます。

では、実際のところ死因は何なのでしょうか?

 

実は家茂は大の甘党。

ストレス発散に羊羹やカステラ、砂糖を使ったお菓子が大好物でした。

 

その結果、虫歯や脚気を患い亡くなってしまったと言われています。

今、「虫歯で人が亡くなる?」って思いましたよね?

 

実は家茂のお墓は徳川家の菩提寺である増上寺にあり、発掘調査が行われています。

そして家茂の頭蓋骨を調べると、31本の歯のうち30本が虫歯。

中にはかなり進行が進んでいた虫歯もあり、通常時でもかなりの激痛があったものと予想されます(家茂の虫歯の状況は検索すると画像が出てきます)。

 

今の時代では信じられませんが、甘いものの食べ過ぎで虫歯や脚気が死因となったことは間違いないようです。

 

 

家茂のエピソード

家茂が上洛に際して大坂を視察したとき、同行していた勝海舟から「これからは軍艦の時代です。ぜひとも幕府で軍艦を動かせる人材を育成したい」と直訴されました。

これに家茂は、京にも大坂にも近い神戸に海軍の操練所建設を約束しました。

このことがきっかけで、勝は家茂の全幅の信頼を寄せていきました。

 

また、書の達人として知られた幕臣、戸川安清は家茂に請われて書の先生を務めていました。

このとき既に戸川は70歳を過ぎた老人でした。

 

あるとき戸川は家茂から水をかけられてしまいます。

家茂は「また明日にしよう」と言ってその場を後にしました。突然の出来事に驚き慌てる側近たちは家茂の行動が理解できませんでした。

 

すると戸川が「齢70を過ぎているので、ふとした弾みで失禁してしまった」と打ち明けます。

家茂は、戸川の粗相が知れれば厳罰は免れないことを考慮してこの行動を取ったとされています。

この気配りに戸川は深く感謝し、生涯忘れることはなかったとされています。

 

徳川家茂の評価

一般的に病弱で、将軍としての主だった功績がないと言われる徳川家茂。

将軍の在任期間が短かったこともあり、確かにこれといった功績は挙げにくいのが実情です。

 

そのため、将軍としての評価は決して高くはありません。

 

ただ、江戸での生活に馴染めない妻を気遣い、思いやる優しさと、列強の脅威を感じとり、海軍操練所の建設を命じる大胆さを持っていたことは事実。

 

実際に勝海舟が家茂に対するこんな評価を残しています。

 

「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」

引用:wikipedia

 

もし、家茂が将軍になった時代が動乱の幕末ではなく、平和な時代だったら、人望を集めた名君になっていたのかもしれません。

 



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