新田義貞ってどんな人物?鎌倉を攻め落とした英雄が足利尊氏と対立した原因とは?

武士の時代というのは必ずヒーローがいます。

ここでいうヒーローとは戦に長けた武勇のスペシャリストのことで、平安時代なら平将門・源義経、戦国時代なら本多忠勝・真田幸村といったメンバーです。

 

そして、南北朝時代のヒーローの一人が新田義貞。

『太平記』という書物には、室町幕府を開いた足利尊氏を中心に鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の創設までの歴史について書かれていますが、その『太平記』の中で主役の1人として描かれているのが新田義貞です。

 

義貞も後醍醐天皇や足利尊氏と同じように幕府に不満を持ち新たな世を目指して行動しますが、やがて足利尊氏と対立。

最期は忠義のために死んだ武士として名を残しました。

 

よく言われるのがこの足利氏と新田氏のライバル関係ですが、実際はどのようなものだったのか?

そして、義貞の最終目標はどこにあったのか?

 

今回は、新しき世のために戦いながらも命を落としてしまった新田義貞が足利尊氏と対立してしまった原因について見ていきましょう。

 

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新田義貞を簡単に解説

 

名前 新田義貞(にったよしさだ)

生没年 1300年頃~1339年

主君 鎌倉幕府・守邦親王→後醍醐天皇

性格 義理堅い、勇敢

氏族 清和源氏流新田氏

 

新田義貞は鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇が建武の新政を行うのに一役買った武将。

政治家としての資質よりも軍事な才能に秀でた右腕的な存在でした。

 

しかし、鎌倉幕府を攻め滅ぼす功績を立てたものの、思ったように出世できなかったこともあり、後に足利尊氏と対立。

湊川の戦いで敗北を喫した後は敗戦を繰り返し、最後は越前国(福井県)で討ち死にしています。

 

新田義貞は、結果的には足利尊氏に負けた敗軍の将で、歴史的に見ると大きな功績はありません。

ただ、後醍醐天皇のために最後まで戦った忠臣として、特に明治時代以降は高い人気を得ています。

 

新田義貞と足利尊氏は同族だった?

新田義貞は足利氏と同じ清和源氏の出身で祖先は兄弟でした。

しかし、源平合戦の頃に当時の当主は源氏が一旦没落した際に平氏との関係を強化したこと、源頼朝が挙兵した際に新田氏は参戦が遅れてしまったことから、同じ源氏の足利氏と比べて待遇が低い御家人となりました。

 

そして時は流れ、義貞が生まれた頃の新田氏は既に足利氏の配下として扱われるようになっており無位無官でした。

 

義貞は幼少期から名家にも関わらず厳しい待遇で暮らさなければならなかったことから厳しい性格に育ち、武勇を身に着けていったとされています。

新田氏は執権北条氏とも関係が悪く、討伐されそうになったこともあるため、義貞は同じく幕府に不満を持っていた足利尊氏と比べてもより露骨に敵対心を向けていたと考えられます。

 

新田氏は東海道にて世良田氏と協力関係を築いていましたが、幕府はこれを快く思わず、所領没収を命令し、高額な資金提供を求めてきました。

 

義貞はこれに怒って幕府からの使者を斬殺。

この事件も関係し、護良親王(もりよししんのう)から鎌倉幕府を倒すようにとの命令が届くと、義貞は倒幕の兵を挙げます。

 

義貞の功績とは

義貞は北関東の反幕府派の豪族を率いて関東へ進軍し、鎌倉へと続く小手指原・分倍河原にて幕府軍を撃破します。

時を同じくして足利尊氏が六波羅探題を陥落させたため、一気に幕府のある鎌倉へと兵を進めますが、この時、鎌倉の海岸線である稲村ケ崎では幕府軍の防備が万全で反乱軍は通交する余地がありませんでした。

 

特にこの地は狭い通路しかなく満潮だったこの時期には行軍もままなりません。

しかし伝説では義貞が天に祈りをささげて太刀を海に投じると、たちまち潮が引き道ができたといいます。

 

機に乗じて義貞率いる反乱軍は一気に由比ヶ浜を突破し鎌倉館に侵入、執権北条高時らは菩提寺の東勝寺にて自害し、ついに鎌倉幕府は滅亡します。

この時後醍醐天皇や足利尊氏は未だ京にあったため、幕府討伐の一番槍は新田義貞ということになります。

幕府を倒したのち、義貞はしばらくの間鎌倉に駐在して戦後処理や幕府の残党討伐に注力しています。

 

しかし、幕府滅亡を聞いた後醍醐天皇が諸将に対して論功行賞を行うと宣言したため、義貞は鎌倉から退去せざるを得なくなります。

いかに功労者といえど義貞の官位はたかが知れており、恩賞を保証するには少し説得力が弱いです。

一方の後醍醐天皇のそばにいた足利尊氏は御家人でもエリート中のエリート。

 

多くの武士は尊氏と天皇のいる京へと向かい次々と義貞の元を去ってしまいます。

尊氏は自分の部下である細川氏を鎌倉へ送り戦後処理を任せますが、当然義貞からすると面白くありません。

しかし義貞も先に尊氏が六波羅探題を陥落させたことが鎌倉陥落の遠因でもあると認めていたため、ついには義貞自身も鎌倉を去って京へと向かい後醍醐天皇から恩賞をもらいました。

 

これによって鎌倉はしっかりと尊氏の支配下に置かれ、足利氏の第二の拠点となります。

 

尊氏との対立の原因

義貞は後醍醐天皇の建武政権では、やはり尊氏の配下として位置づけられます。

当時、建武政権の事実上のトップにいたのは武家代表では尊氏、そしてもう1人は後醍醐天皇の皇子・護良親王です。

しかしこの2人は元からとても仲が悪く護良親王は尊氏を排除しようと考えていました。

 

尊氏はこれに対し後醍醐天皇に護良親王の排除をお願いし、それを義貞らに実行させます。

義貞は本来護良親王と組んで尊氏を排除する側にいたと思われますが、天皇直々の命令には逆らえず親王を捕縛してしまいます。

 

後醍醐天皇は元から尊氏を警戒していたので、親王に代わる対抗馬として義貞にチャンスを与えます。

この時期から義貞の昇進スピードが明らかに不自然で、天皇は尊氏を排除するために義貞を体よく利用した形になります。

 

それから間もなく、北条高時の遺児・時行が挙兵し鎌倉を占領する事件が発生。

この際に義貞は一族を多く亡くし、さらに後任はすべて尊氏に寝返ってしまいます。

 

これによって義貞は追い込まれてしまい、尊氏は時行討伐を完了した後も「義貞が公家と結託して自分を追い落とそうとしている」といって鎌倉に留まり、武士達に独断で恩賞を与えるなどして明らかに後醍醐天皇から離反する動きを示しました。

これに怒った後醍醐天皇は義貞に命じて足利尊氏・直義兄弟追討令を発し、彼を事実上の大将に任命します。

 

いざ出陣した討伐軍ですが、義貞の希望とは裏腹に足並みが揃わず、公家衆や農民軍まで結集していた大連合軍は義貞にとって指揮しがたい軍勢でした。

それでも京での戦いでは楠木正成の活躍で尊氏らを京から追い出すことに成功します。

 

河内出身の正成は必ずしも義貞と考えを同じくせず、義貞と尊氏では人間の器に差がありすぎて勝てっこないから早々に鎌倉とは和睦すべきだと公家らに主張していました。

しかし公家らはこの主張を鼻で笑い却下し、そればかりか正成に謀反の疑いありと訴えて謹慎処分にしてしまいました。

 

九州まで逃げていた尊氏ですが、途中で後醍醐天皇に退位させられていた光厳上皇から院宣(命令)を受けて義貞討伐の大義を得ます。

そして西国の武士を結集して再び京を目指して進軍。

義貞軍は湊川の戦いで敗北を喫し、有能な武将であった楠木正成を戦死させてしまいます。

 

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義貞の最期

正成を失った義貞の軍勢は撤退を余儀なくされ、京は足利軍に制圧されました。

この間、足利直義(尊氏の弟)は後醍醐天皇と密かに和睦を結ぼうと画策していました。

後醍醐天皇もこれを承諾し、そのように動き始めたといわれています。

 

このことを知らされていなかった義貞にとって、後醍醐天皇のこの動きは裏切り以外の何物でもありません。

義貞は怒りを抑えきれず、後醍醐天皇の軍勢を包囲す事態にまで発展しています。

 

その場はなんとか事なきを得ましたが、これ以後、義貞と後醍醐天皇の間には深い溝が生じてしまいます。

 

義貞は後醍醐天皇と別れて恒良親王、尊良親王を連れて越前の金ヶ崎城に逃亡。

そこですぐに尊氏の討伐を受けます。

 

しかし、すでに義貞は満足に抵抗できるほどの軍勢を残しておらず、兵糧もろくになかったため死人の肉を食らって生き延びるような状況。

金ヶ崎城の戦いでは親王2人が戦死(自害とも)、捕縛されるほどの損害を受けて落城します。

 

この時、尊氏は義貞を討ち取ったと思っていましたが、実は義貞は城を脱出して生き延びています。

 

その後、義貞は再起を図ろうとしますが、多くの豪族に連携を拒否され、単独で尊氏と戦う事になります。

越前にいた義貞は藤島にて北朝と交戦しますが、それほど大きな戦いでもないに関わらず軽率に表に出たところを敵軍に包囲され、一斉射撃を受けます。

 

矢を受けたことで落馬し、起き上がったところに眉間に矢が刺さった義貞は、もはやこれまでと自害して果てたとされています。

 

まとめ

朝廷を重んじる価値観を構築する必要があった明治時代では、南朝の武士は忠臣、逆に北朝の尊氏は朝敵という風潮が一時作られたこともあります。

しかし忠臣と称される英雄ほど結果は「敗者」で、残念ながら彼らの人生が本当に現生で報われるものだったかどうかは疑わしいです。

 

義貞は尊氏の配下として生きていれば、地位は低くとも幕府の一家臣として家名を残すことも可能だったはずです。

しかし後醍醐天皇は武士を体よく利用して自分の理想を実現させようとしていました。

 

義貞は尊氏のように鬱病と思われるようなデリケートな性分ではなかったようですが、しかして自信家でもあったゆえに尊氏と道を同じくすることはできなかったのです。

 

関連記事→足利尊氏が開いた室町幕府の場所や功績を分かりやすく解説!

 

最期は後醍醐天皇とも亀裂を生じてしまったことから味方をなくし孤独に死んでしまいました。

尊氏と義貞がライバルだったかどうかには諸説ありますが、結果として足利と新田は奇しくも同時代に2人の英雄を生んでしまい、どちらかが滅ぶ運命を背負わされたのです。

 

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