徳川慶喜は将軍としての資質はあった?大政奉還を行った理由とその評価!

260年以上続いた江戸時代。

その時代を自らの手で終わらせたのが江戸幕府15代将軍・徳川慶喜です。

 

慶喜が大政奉還を行なったことで徳川家による政治が終わり、新しい時代へ突入していきます。

では、なぜ慶喜は自らの手で家康が築いた徳川時代を終わらせたのか?

 

今回は徳川慶喜という人物にスポットをあててみたいと思います。

 

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そもそも大政奉還ってなに?

大政奉還とは、幕府が持っている政治をする権利を朝廷に返上すること。

江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が、朝廷から授かった「征夷大将軍」という位とともに、政治をする権利を朝廷に返上した出来事を指します。

 

大政奉還が行われたのは京都の二条城。

慶喜が政権を返上したことで、徳川幕府による260年の支配が終わります。

 

 

では、なぜ徳川慶喜は大政奉還を行ったのでしょうか?

徳川家康が開いた幕府を終わらせるというのは、並大抵の決心ではなかったはずです。

 

そこで、次は慶喜が大政奉還を決めた理由や時代背景を見ていきましょう。

 

慶喜が大政奉還を行なった理由や背景

慶喜が将軍となったころ、幕府は以前のような権威を維持しておらず、崩壊寸前でした。

欧米諸国からの圧力に押されて不平等な条約を結ばされるなど、諸藩の間には「もう徳川幕府に政治を任せておけない。」という風潮が高まっていました。

 

そんな中で打倒徳川を掲げて実行に移したのが薩摩藩と長州藩。

薩摩と長州は公家・岩倉具視らを巻き込んで、「討幕の密勅」と呼ばれる極秘命令を受け、武力による倒幕を実行に移そうとしていました。

 

「このままでは幕府が薩摩や長州などの連合軍に攻め滅ぼされてしまう・・・。」

 

そう考えた慶喜は、土佐藩からの建白もあり、機先を制して大政奉還を行います。

徳川幕府が政権を朝廷に返上すれば、薩摩や長州は徳川を攻める理由(大義名分)がなくなるという訳です。

 

 

つまり、大政奉還は弱体化していた徳川幕府を守るための最後の手段だった訳です。

 

そして、慶喜には政権を返上しても徳川が今まで通り生き延びていけるという打算もありました。

政権を返したとしても鎌倉時代から700年近く政治の舞台を離れていた朝廷には運営のノウハウがなく、結局は徳川が政治を行うことになるという計算があったのです。

 

事実、朝廷からは引き続き慶喜に政務が委任され、将軍職も保持したままでした。

 

ただ、これを面白く思わなかったのが肩透かしを食らった薩摩藩や長州藩。

倒幕を目指していた志士たちは朝廷に働きかけ、ついに天皇が「王政復古の大号令」を発します。

 

これによって、武士によって続けられてきた政治を廃止し、天皇中心に政治が行われることになります。

 

大政奉還と王政復古の大号令の違い

大政奉還と王政復古の大号令の違いが分かりにくいという方が多いのですが、簡単に分けると下記のようになります。

 

  • 大政奉還:幕府が政権を朝廷に返上すること。
  • 王政復古の大号令:幕府を廃止して新政府を作り、武士ではなく天皇中心の政治を行うこと。

 

実際は大政奉還後も徳川が政治を委任されていましたが、正式に幕府を廃止して、徳川抜きで天皇中心の政治を行うことを宣言したのが「王政復古の大号令」です。

 

慶喜は名君なのか暗愚なのか?その評価と私が思う功績

徳川幕府を終わらせた将軍として、慶喜は名君だったのか暗愚だったのかという議論が行われることがあります。

つまり、徳川慶喜の将軍としての評価ですね。

 

私は、慶喜は日本を危機から救った名君であると思います。

当時、アジアのほとんどの国がイギリス、フランス、オランダなどの植民地となっており、日本も例外ではなく隙あらばという状況でした。

こうしたなかで慶喜は彼らの力を外交に利用し、自らの権威づけに成功しています。

 

大政奉還後も自分が中心となる新国家体制を模索しますが、鳥羽伏見の戦いでの敗退によりこの計画は破綻。

当時、幕府に肩入れしていたフランス公使は再起を促しますが、慶喜は頑として拒否しています。

 

慶喜が恐れていたのは、日本が植民地化されることであり、それを避けるためにも内乱は絶対に回避せねばいけないことでした。

もし、フランス側の再起を受け入れていれば、それこそ全国規模での内乱となり、仮に旧幕府が勝利したとしてもフランスに分け前を要求されていたかもしれません。

 

それを考えると、慶喜は自らが悪役となることで日本の植民地化の危機を回避し、スムーズに新体制に移行させた名君といえると思います。

 

明治維新後の慶喜の暮らしはどんなだった?

将軍という地位を失った慶喜は明治時代をどう生き抜いたのか?

慶喜は、新政府軍から一旦は賊臣と見なされますが、家臣たちの尽力により赦免され、故郷の水戸、そして徳川家ゆかりの静岡で謹慎生活を送っています。

 

明治2(1869)年に謹慎が解かれた後も30年近く静岡にとどまり、写真撮影に出かけたり、狩猟や投網を楽しむなど趣味人としての余生を過ごしていました。

 

 

また政治には一切の興味を示さず、訪ねて来た旧幕臣にもほとんど会わなかったといいます。

 

「もう政治には関わりたくない・・・。」

これが慶喜の本音だったのかもしれません。

 

なぜ慶喜の墓所は寛永寺や増上寺にないのか?

慶喜は静岡で過ごした後、東京の小石川に移り、この地で最期を迎えます。

そして亡骸は谷中霊園に葬られます。

 

歴代の徳川将軍は上野の寛永寺や芝増上寺に墓があるのですが、なぜ、慶喜の墓は寛永寺や増上寺ではなく谷中霊園なのでしょうか?

実は慶喜は自ら幕府を終わらせてしまったことで、歴代将軍に顔向けできないという自責の念があったと言われています。

そのため、徳川の菩提寺ではなく、谷中霊園にお墓があるという訳です。

 

また、生前、明治天皇の大赦によって朝敵の汚名を晴らせたばかりか、明治維新の功労者として、公爵の爵位を授けられたことへの感謝を表していたからという説もあります。

その証拠に、慶喜のお墓は仏教式のお墓ではなく、皇室と同じ神式の墓が建てられています。

 

これはやはり、一度は朝敵となった自分を優遇してくれた、明治天皇に対する感謝の気持ちがあったのだと思います。

 

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