徳川家康と三河武士といえば苦楽を共にしてきた一心同体の仲間意識が強い集団というイメージがありますが、それはどこまでが真実なのでしょうか?
三河武士は家康が若い頃から長きに渡って仕えた武将が数多く名を連ねていますが、酒井忠次はその中でも筆頭にあたる人物です。
忠次の生涯はそれこそ徳川家のためにあったような人生ですが、家康最古参の家臣の人生はどのような結末を迎えたのでしょうか?
今回は、酒井忠次の生涯と忠次を取り巻いた信長・秀吉・家康らの関係についてみていきましょう。
酒井忠次ってどんな人?
酒井忠次は家康が今川義元の人質だった頃から仕えている徳川家の老将。
戦での活躍が多く、政治手腕の面でも家康から信頼されている右腕的存在でした。
井伊直政、本多忠勝、榊原康政と並んで、徳川四天王の1人に数えられています。
名前:酒井忠次(さかいただつぐ)
生没年:1527年~1596年
出身国:三河国
家系:三河酒井氏、祖先は徳川氏と同じ松平氏
主君:松平広忠→徳川家康
略年表
1540年代初頭 元服後、松平広忠に仕える
1549年 徳川家康が今川義元の人質に行く際に同行
1563年 三河一向一揆で他の酒井氏とは別に家康に個人的に従う
1564年 東三河を与えられそこの豪族の統治を任せられる
今川討伐、姉川、三方ヶ原、長篠と主だった戦にはすべて参加し武功を立てる。
1579年 嫡男・松平信康の内通を信長から疑われた際に弁明の使者として信長に面会、しかし弁護に失敗し信康は切腹
1582年 伊賀越えに同行
1584年 小牧長久手の戦いに参戦
1588年 隠居
1596年 死去
徳川家臣の筆頭だった忠次
忠次は1527年生まれで、家康より16歳も年上の武将。
徳川四天王の井伊直政は1561年生まれ、本多忠勝・榊原康政は1548年生まれ。
その他の主だった重臣、服部半蔵1542年生まれ、鳥居元忠1538年生まれと、直政以外はほぼ家康と同世代だったことを考えると、忠次は飛びぬけて年長です。
徳川家中で年配者のイメージがある石川数正(1533年生まれ)や本多正信(1538年生まれ)よりも年上ということになります。
そして、後に忠次は結婚をしますが、その相手は松平清康という人の娘で松平広忠の妹。
この松平清康は有名な三河の英雄で家康の祖父なので、つまり忠次は家康の叔母と結婚して家康の叔父になったということになります。
これで忠次がどれだけ家康に近い距離の重臣だったかが分かりますよね?
忠次は家康が今川義元の人質になった時からずっと従っており、桶狭間の戦いをきっかけに家康が独立すると家老となり徳川家臣を牽引する立場になります。
長篠の戦いで信長から賞賛される
長篠の戦いの際、信長は忠次を呼びつけて忠次隊と織田軍から金森長親を呼び別動隊を組織して鳶ヶ巣山砦を奇襲するように命じます。
この作戦は元々忠次が発案したものですが、信長は当初この作戦をあっさり却下し軍議を取りやめます。
しかし、信長の気が変わったのか、すぐに忠次を呼び寄せて彼をべた褒めすると早速実行を命じます。
実はこの時信長は武田の間者を警戒してわざと忠次を非難したという逸話が残っています。
いざ作戦を決行するとほとんど忠次の一方的な戦さ。
鳶ヶ巣山砦は陥落し味方部隊の危機を救うのに貢献しています。
信康切腹事件との関わり
家康の嫡男・松平信康とその母・築山殿はかねてから家康と不仲であり、武田との内通を疑われていました。
そんな中、信康の妻となっていた信長の娘・徳姫が信康と築山殿が武田に内通していると信長に報告。
忠次は弁明の使者として信長の安土城まで出向きます。
しかし、この時に忠次が信康を庇うことなく、信長の要求をすべて飲んでしまったため、信康が切腹することになってしまったとされています(信康切腹事件は家康が計画したものだという説もあり)。
自分の息子が切腹することになったのは忠次が信康を庇わなかったため。
そう感じた家康は忠次に対して恨みを持っていたという説もあります。
老臣としての調整役
忠次は前線にて活躍する武将でしたが、戦以外でも海老すくいという踊りが得意で、自ら諸将の面前に出て披露する一面もあるムードメーカー。
年長者らしく家臣同士の調停も行っています。
武田家滅亡後、大半の武田遺臣が井伊直政に仕えると、榊原康政が自分にほとんど家臣を与えられなかったことに不満をつのらせます。
この時、忠次が直政と康政の仲を取り持ち、2人は関係を修復しています。
忠次の存在は徳川家中の怖い大先輩といった感じだったのかもしれません。
秀吉から隠居料をもらう
忠次は小牧長久手の戦いから間もなく隠居し、家督を息子の家次に譲ります。
秀吉は小田原城を陥落させ家康を関東に転封した際に徳川家臣に個人的に褒美を与えようとします。
隠居の忠次は当然小田原征伐に参加していませんが、秀吉も当然忠次を知っていたので隠居料として京都に1000石の領地と世話係の女を与えています。
そして晩年の忠次にはこんな逸話があります。
忠次の息子・家次は家康から3万石の領地を与えらえていましたが、井伊直政、本多忠勝、榊原康政は10万石レベルの石高でした。
このことに不満を持った忠次が家康に「息子の石高を上げてほしい」と頼むと、家康は「お前でも自分の息子は可愛いのか?」と言い放ったという逸話があります。
これは長男の信康を見殺しにしたも同然の忠次に対する嫌味。
こういった逸話が残っていることから、晩年の忠次は家康との関係が上手く行ってなかったのではないかと考える人もいます。
晩年の忠次の家康との関係は?
徳川家康の股肱の臣であった忠次ですが、どうも後半生はいまひとつ家康との関係がかみ合っていなかった節があります。
個人的には井伊直政のデビュー時期を忠次が引退を考え始めた時期は重複するのではないかと思います。
直政が武田式の軍制を用いたのは石川数正が秀吉の元に出奔したから。
忠次は数正の出奔以降、失明したこともあって戦に参戦したという記録はありません。
忠次が親しんできたのはあくまで伝統的な徳川流の軍制であって、武田式の軍制には全くの門外漢だったのでしょう。
石川数正が出奔後に関東に足を踏み入れることがなかったように、もしかしたら忠次も京都に移ってから家康と顔を合わせることはなかったのかもしれません?
家康が京都に居を構えるようになるのは1595年以降。
その翌年に忠次が亡くなるので、2人の交流は晩年には激減していたのではないかと感じています。
そこには天下を目指す家康と、三河武士として生きた忠次の温度差ができていたのかもしれません。
(ほぼ目が見えなくなっていたというのもあるかもしれませんが・・・)
どちらにしても徳川家康を支え続けてきた老臣は、戦場ではなく京都の落ち着いた環境の中で晩年を過ごしたようです。
忠次は70歳で亡くなり、墓所は京都の知恩院にあります。