徳川家康の逸話をまとめて人柄を分かりやすく紹介!

学校では、戦国時代を終わらせた天下人は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人だと習いますね。

当時の常識を超えた発想で道しるべとロマンを与えた織田信長、低い身分から武士のトップにまでのし上がった豊臣秀吉と違い、徳川家康の天下統一はいかにも現実的で地味な印象を感じてしまうかもしれません。

 

しかし、家康が打ち建てた「江戸時代」こそ、明治維新から現代日本にかけての形、そして外国人が喜んで覚える「sushi」「samurai」といったイメージを生み出した偉大な父でもあるのです。

そんな現代日本の直接的な祖先となった家康は、どんな人物だったのでしょうか?

 

今回は、徳川家康の生涯と意外と知られていない性格、そして名場面を見ていきましょう。

 

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徳川家康ってどんな人?簡単に解説!

徳川家康がどういった人物なのか、簡単な略歴と逸話を元に紐解いていきましょう。

 

 

名前:徳川家康/松平元康

生没年 1541年~1616年 享年73歳

呼ばれ方(あだ名):海道一の弓取り、東照大権現(神号)、大御所(隠居後)、神君(死後)

 

官位:右大臣、征夷大将軍、太政大臣

 

 

今川義元の人質として過ごす

徳川家康は1541年、三河の豪族・松平広忠と水野忠政の娘・於大の間に長男として生まれます。

三河の松平家は弱小だったので強大な今川義元に頼って生き延びていました。

 

広忠は6歳になった家康を義元に人質として送ろうとしましたが、途中で裏切りにあって家康は義元の天敵・織田信秀のもとに送られます。

この時に信秀の嫡男だった信長と初めて出会ったといわれています。

 

2年後に父・広忠が暗殺されると家康は人質交換という形で今川にたどり着き義元の人質として過ごします。

この時期に義元の軍師とされる太原雪斎(たいげんせつさい)から教育を受けたことが、家康の人生に大きな影響を与えたといわれています。

やがて家康は今川家の重臣の娘・瀬名(築山殿)と結婚し松平家の家督を相続します。

初陣は桶狭間の戦いの前哨戦です。

 

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川家は急速に衰退します。

これをチャンスとみた家康は三河を奪い独立を画策、かつての友人織田信長と同盟を結び、周辺の豪族の反乱を鎮めてついに三河を統一します。

こうして家康は名を松平から徳川と改めて再デビューを果たします。

 

関連記事→今川義元の配下だった頃の松平元康(徳川家康)の苦難!

 

三方原で武田信玄に敗北

家康は信長の上洛や浅井・朝倉討伐にも積極的に協力し、姉川の戦いでは朝倉軍に奇襲をかけて信長軍勝利のきっかけを作りました。

しかしそこに武田信玄という最大の脅威が現れます。

 

武田信玄は上洛の途中に家康の三河を通りますが、家康のいる浜松城を素通り。

これにプライドを傷つけられた家康は怒りに任せて信玄を追いかけます。

 

しかしこれは信玄の策略。

まんまと三方ヶ原におびき寄せられた家康はあっという間に敗北し、命からがら浜松城にたどり着きます。

この時、家康は恐怖のあまり脱糞したとも伝わり、この時の悔しさを忘れないために、すぐさま絵師を読んで自画像を描かせます。

二度と失敗を繰り返さないために自らを戒めたこの画像。

これは「しかみ像」と呼ばれ現在でも見ることができます。

 

 

眉間にしわを寄せて怖い顔をしているのは怒りと悔しさがにじみ出たものなんですね。

 

武田を滅ぼし、領土拡大を狙う

武田信玄が亡くなると、後を継いだ勝頼は長篠の戦いで大敗北。

以後、家康は勝頼との戦いに専念し、1582年についに武田家を滅ぼすことに成功します。

 

その3か月後に本能寺の変で同盟相手の信長が亡くなると、すぐさま領主が不在となった旧武田領を狙って相模の北条氏直と争いを繰り広げ、旧武田領の大半を獲得することに成功します。

 

家康は元は三河と駿河しか領していませんでしたが、これによって甲斐等の領地を獲得し、武田の遺臣を数多く召し抱えます。

そして召し抱えた武田の遺臣を井伊直政の付属に。

こうして「井伊の赤備え」が誕生します。

 

関連記事→井伊直政が率いた赤備えって何?武田信玄の家臣から続く系譜を解説!

 

しかし旧武田領をめぐる争いは次第に泥沼化し、特に上田にいる真田昌幸には散々に振り回されて大敗北を喫してしまいます。

 

豊臣秀吉に勝ち、優位な条件で従う

織田信長に代わって勢力を拡大した羽柴秀吉。

これを面白く思わなかったのが信長の次男・信雄でした。

 

信雄は秀吉をギャフンと言わせたいといって家康と同盟を締結。

家康は大義名分を手に入れて秀吉と小牧長久手にて対決することとなりました。

 

羽柴軍は多くが元同僚が集められた寄せ集めの軍。

今一つ統率が取れないまま、池田恒興や森長可が小牧長久手から迂回して家康の本拠地を攻めるという作戦を実行に移します。

 

この奇襲作戦に気づいた家康は軍勢を派遣して恒興と長可を討ち取り、事実上秀吉に黒星をつけました。

しかし、信雄が独断で秀吉と和議を結んだため家康は大義名分を失って撤退を余儀なくされます。

 

以後、秀吉は家康の同盟相手を次々に降伏させ、家康も秀吉の下につく事になります。

家康はこの時に秀吉の妹を妻とし、その母をも人質として受け入れていました。

 

秀吉に従属する際には次男・秀康を人質に差し出しますが、秀吉は豊臣政権内で終始家康を厚遇、相模の北条氏を滅ぼすと家康を関東に転封します。

 

これは家康の勢力を恐れた家康を遠ざける意味がありましたが、結局勢力を削るということはできませんでした。

 

天下を握った関ケ原の戦い

1598年、秀吉が亡くなると家康は秀吉の遺言を破って伊達政宗加藤清正ら諸大名と政略結婚を繰り返し前田利家をはじめとする多くの大名から反感を買います。

世は家康派と利家派に分かれ一触即発の時を迎えますが、間もなく利家が病没すると家康は次いで反抗的な上杉景勝を征伐するために京から会津に向かいます。

 

その途上、失脚していた奉行の石田三成が毛利や宇喜多を擁立して挙兵。

家康は急ぎ転身して関ケ原にて雌雄を決します。

 

関が原の戦いを前にして、家康は多くの大名に手紙を書き、自分の陣営に引きずり込んでいます。

その結果、数多くの大名が三成を裏切り、戦は半日で決着。

 

家康はこうして豊臣家から権力を吸い取り、1603年には朝廷から征夷大将軍の官位をもらって江戸に幕府を開きます。

 

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大阪の陣へ

1605年、家康は三男・秀忠に将軍職を譲って隠居し、自分は駿府城にて大御所として政治を動かし続けます。

この時も大坂には豊臣秀頼が健在で、いくつもの大名が徳川と豊臣の様子を伺っていました。

 

家康は自分が生きているうちに豊臣を滅ぼしておく必要があると考え、豊臣家に対する強引な要求を突きつけるようになります。

1614年、方広寺の鐘の文字が徳川に仇なすとして豊臣討伐を決定。

 

大阪冬の陣が開戦します。

牢人衆ばかりの豊臣軍に対し家康は余裕の態度でしたが、真田丸での戦いで真田幸村が徳川軍に圧勝。

作戦を切り替えた家康は大筒にて大坂城に砲撃し、これを恐れた秀頼の母・淀殿に和睦を決断させます。

 

しかしこの和睦は見せかけの和睦。

家康は和睦の条件として大坂城の堀を全て埋めてしまい、大坂城の防御機能を皆無にしていまいます。

 

そして1615年に再び大坂城を攻撃。

またしても真田幸村の反撃にあり、切腹を覚悟する状況にまで追い詰められますが、数で真田軍を押し返し、幸村を討ち取ります。

そして大阪城の山里曲輪で秀頼と淀殿を自害させ、豊臣家を滅亡させます

 

大阪夏の陣を終えて太平の世を築いた家康はこの世を去り、久能山に葬られ日光東照宮に神として祀られます。

 

文武両道に明るかった家康

家康は生涯を通じて学問にとても明るい人物でした。

彼が好んでいたのは『史記』『貞観政要』といった古代中国の古典、尊敬していたのは劉邦、李世民といった人物です。

 

天下統一以降はウイリアム・アダムス(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(八重洲)といった外国人の協力を得て地理や建築学にも興味を持ち、幅広い教養を収めていました。

 

家康といえばタヌキを言われるように小太りな体形を想像しますでしょうが、実際は剣術・馬術・弓術・銃のあらゆる武道の達人で免許皆伝をいただいてます。

 

それに健康に対する意識もとても高く、中国の医学書を読破し自ら薬の調合を研究する等の功績も残しています。

家康が73歳という長寿を全うできたのは健康オタクだったからだと言われています。

 

短気な一面と情に厚い性格

家康といえば「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」という句でも知られるように、焦らず冷静沈着な性格であると言われています。

ただ、そのエピソードの大半は晩年のもで、家康はイライラすると怒りに任せて行動する癖がありました。

 

例えばいざ自分が不利になると親指の爪や扇子をかじり、時には血がでるほどだったとか・・・。

関ケ原の戦いの際に霧で方向感覚を失った部下が誤って家康の陣に入ってしまった際に、誰かを答えなかった小姓の指物の竿を一刀で切り捨ててしまったこともあります。

 

また、桶狭間の戦いで今川義元が死ぬと孤立無援の状態となった家康はあっさりと自害しようとしていますし、大坂夏の陣でも幸村に本陣まで攻められて自害しようとしています。

 

信長や秀吉には追い込まれて自害未遂という逸話がないので、意外と家康も性格的に短慮な部分も持ち合わせていたのではないかと思います。

 

一方で、情に厚い性格だったのも事実。

三方ヶ原で身代わりとなった夏目吉信の子が規律違反を犯しても昔の恩を引き合いに出して許したり、かつての仇敵であっても召し抱えて俸禄を与えるなど過去の怨恨に囚われない一面もあります。

 

おそらく家康は年を取って性格が丸くなったと言ったほうが正しいのではないかと思います。

 

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子供達や家臣との関係

家康は息子達の関係に苦慮した人物としても知られています。

長男・信康には織田信長からの命令で自害を命じ、次男・結城秀康は容姿が醜いとの理由から常に遠ざけていました。

 

2代将軍となった三男・秀忠も関ケ原の戦いに遅参したことから一時は後継者から外れそうになったことも・・・。

現に本多忠勝や井伊直政は秀忠以外の息子を擁立しています。

 

そして六男・忠輝は素行不良やキリスト教との関わりを疑われて蟄居を命じています。

しかし御三家となる九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房からは絶大な信頼を浴びており、彼らは秀忠、家光の時代にかけて「家康の息子」ということで将軍とはしばしば意見を競わせています。

 

ところで信康を自害に追い込んだのはとても後悔していたようで、関ケ原の戦いの際に「岡崎三郎(信康)がいればこんな大事にはならなかったのに」と信康の武勇を惜しんでいます。

六男・忠輝につらく当たった理由は実は信康に似ていたとする説もあり、実は感情で行動するタイプだったとも思われます。

 

家臣に対しても若い頃は本多忠勝や榊原康政といった武闘派の家臣を重用しましたが、幕府が成立した後は本多正信や大久保忠隣などの官僚肌を重用し、忠勝ら武闘派を遠ざけた正信らの動きを容認しています。

 

しかし、井伊直政だけは武闘派でありながらも政治力に長けたために関ケ原の後も重用し続け、井伊家の子孫は江戸時代を通じて12人いた大老のうち8人までもが井伊家から出るような重要な家として栄達しています。

 

関連記事→井伊直弼と井伊直虎はどういう関係?桜田門外に散った大老の家系と実績とは?

 

 

家康の名言

現在では家康の言葉ではないとされていますが、僕が感銘を受けた文章でもあるので、家康の遺訓として有名な名言をご紹介しておきます。

 

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。

不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。

勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。

おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり

徳川家康遺訓

 

関連記事→世界の人が下した徳川家康の評価とは?家康の性格や死因を紹介!

 

まとめ

さすがに神格化された人物なだけあって家康の逸話には事欠きません。

それに人間味あふれるエピソードも数多く見られ一言では語りつくせない深みも感じます。

 

家康はどちらかというと晩成型の人物。

偉大とされるエピソードの大半は晩年になってからの話で、若い頃は目の前の問題に精いっぱいな姿が見えています。

 

しかしだからこそ普通の人が学べないところまで学ぶことができ、最後はついに勝つことができたのでしょう。

上記の言葉は残念ながら家康自身が言ったわけではありませんが、彼の人生を総評するとこのように表現しても間違いではないでしょう。

 

家康もやはり戦国大名、そして天下人として愛される存在です。

 

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