高坂昌信と甲陽軍鑑!出世のきっかけは武田信玄との衆道関係?

現在私達が知っている武田信玄のエピソードの大半は、『甲陽軍鑑』という書物にまとめられたものです。

甲陽軍鑑の作者は高坂昌信(こうさかまさのぶ)で、武田信玄に長く仕えた人物として知られています。

 

甲陽軍鑑は物語であり記述も所々が曖昧であるため、歴史資料としては疑問符がつくところがあります。

では、昌信はどのような立ち位置の人物で、甲陽軍鑑を記した理由は何だったのでしょうか?

 

今回は、武将であり著述家としても名を遺した高坂昌信について、見ていきましょう。

 

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高坂昌信とは?

高坂昌信は武田信玄と勝頼に仕えた武将。

撤退戦が上手なことから「逃げ弾正(だんじょう)」というあだ名が付いています。

 

弾正というのは役職名。

撤退が上手かったということで、兵をまとめる統率力や指揮能力が高かったことが分かります。

 

 

高坂昌信/春日虎綱 (こうさかまさのぶ/かすがとらつな)

生没年:1527年~1578年

主君:武田信玄→武田勝頼

 

信玄時代の武田四天王の1人に数えられる。

『甲陽軍鑑』の著者とされるが、完成前に死去しておりその事業は家臣や甥に受け継がれて完成した。特技は囲碁。

 

とても簡単な昌信のプロフィールですが、まず疑問に思うのが春日虎綱という彼のもう1つの名前です。

 

『甲陽軍鑑』によると、昌信本来の生まれは春日氏で武家ではなく百姓。

しかし父が亡くなると身寄りがいなくなり信玄に仕えるようになります。

 

信玄の元では小姓として仕えましたが、やがて部下を抱えて戦に出るようにもなり、春日源五郎虎綱と名乗ります。

信玄と衆道関係にあったとされていて、信玄が浮気の弁解をしている書状が現存するのですが、その宛名の「春日源助」が昌信だとされています。

 

信玄が信濃の村上義清を追い出すと、高坂氏が信玄に服属します。

そして虎綱は信玄の命令でこの高坂氏の養子となり高坂昌信と名乗るようになります。

 

こういった昌信のスムーズな出世を見ると、信玄と修道関係にあり、寵愛を受けていたという可能性は高いと思います。

(徳川家康と井伊直政のような感じですね→井伊直政(虎松)の性格と評判!家臣に嫌われた悲しい最期とは?)

 

高坂昌信の功績

彼の主だった活躍は川中島の戦いに代表されるような信濃の山間の戦いです。

統治にも優れており、信玄時代においては重要な立ち位置であったために、後世武田四天王の1人に数えらえます。

 

ちなみに、他のメンツは山県昌景、内藤昌豊、馬場信春。

いずれも武田家内では名の知れた人物で、戦上手なだけでなく、政治手腕も優れた武将として知られています。

 

このメンバーに百姓出身とされる昌信が肩を並べるというのは、並の才能と努力だけではできないことではないかと思います。

 

信玄が亡くなると勝頼が後を継ぎますが、勝頼は人事を一新するにあたって信玄時代以来の老臣ではなく跡部勝資らを重用します。

これによって昌信や昌景といった老臣は勝頼との仲がこじれたといわれています。

 

衰退する武田家の柱石

昌信は長篠の戦いには参加せず信濃の海津城を守っていました。

長篠の戦いで武田軍が壊滅的な状況になることを考えると、昌信が信濃に留まっていたというのは不幸中の幸いと言えるかもしれません。

ただ、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春という他の四天王が亡くなったことで、昌信の肩に掛かる負担も増大していきます。

 

昌信は重臣の大半を失った武田家の再編を進言。

織田・徳川が敵となった以上、今度は相模の北条との同盟を再興すべきだという意見を提出します。

 

勝頼は北条・上杉の同盟を利用する形で上杉謙信亡き後の後継者争いにも介入。

武田家は本来北条の肩を持つつもりで、北条からの養子である上杉景虎に与していましたが、やがては景勝と同盟することを決め、昌信にその交渉を任せていました。

大河ドラマ『天地人』で兼続とこの交渉をしていたのは高坂昌信でしたね。

しかし、『天地人』でもそうでしたが昌信は既に病を得ており、国に帰ると間もなく亡くなります。

 

この交渉は息子の春日信達に受け継がれ、信達は本能寺の変の後の混乱で裏切りを繰り返して殺されます。

(そして春日信達は大河ドラマ『真田丸』の中で殺害されという運命に・・・。)

 

『甲陽軍鑑』の執筆は、本来信玄・勝頼期の事績を記し勝頼や勝頼が贔屓にしている近臣に対し諫言をするための書として記したとしています。

つまり、『信長公記』のような伝記ではなく、戒めや教訓を記した書物。

元々昌信の主観が入っていて然るべきものなのです。

 

しかし昌信が甲陽軍鑑の完成前に死去。

昌信の意思を継いだ甥が甲陽軍鑑を完成させます。

 

しかし、原本は現存しておらず、武田家家臣などのに書き写されたものが広く伝わっていきます(この時に改変などの可能性もあり)。

現在の形になったのは武田の遺臣の手が加わった江戸時代のことなので、そこには信玄を尊敬していた家康時代の風潮が反映されているような気がします。

 

まとめ

現代まで伝わる武田信玄のカリスマ像、そして勝頼時代の凋落はこの『甲陽軍鑑』による勝頼ネガキャンが元となっています。

昌信自身は目の前の問題を解決するために『甲陽軍鑑』を記したはずですが、後世になって全然違った目的で利用されることになってしまったようにも思えます。

 

歴史の研究が何百年、何千年経っても尽きることがないのは時代の流れでぼやけてしまった著者の意図と真実を探るためなんですね。

 

もし昌信が生きているうちに勝頼が『甲陽軍鑑』を読んでいたら、武田家は延命できたのでしょうか?

昌信死去のタイミングも武田家滅亡の一因なのかもしれませんね。

 

 

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