明智光秀と南光坊天海は同一人物?その可能性はあるのか?

“明智光秀と南光坊天海は同一人物である”

おそらく戦国時代が好きな人は何度も聞いたことがあるはずのこの俗説。

 

普通ならこういうゴシップ系の説はとても信用できるものではなく、簡単に淘汰されるもののはずです。

しかしこの説は長い間討論や考証が続けられ、今や小説・漫画・ゲーム等では半ば当たり前に承認されているような話となっています。

 

この説を裏付ける傍証は数多くありますが、そもそも光秀=天海説はいつから唱えられるようになったのでしょうか?

それに光秀が天海になったとして何の意図を持って名を隠し姿を変えて再び世に出ようとしたのでしょうか?

 

今回は、このあまりにも有名な光秀=天海説の来歴と概要を紹介し、その信憑性に迫ります。

 

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南光坊天海とは?

明智光秀についは誰もがご存知ですよね?

しかし、南光坊天海について詳しく知っている人はどれだけいるでしょうか?

まずは天海の生涯について見てみましょう。

 

南光坊天海の生涯の特徴は、前半生をどのように生きたかがはっきりしないことと確実に100歳を超える長寿であったことです。

天海はその出自からして全くの謎ですが、確実なのは比叡山出身の僧であったこと。

そして徳川家康が関東に転封になった際に天海もこれに従って関東に住むようになったと言われています。

 

 

天海の主な役割は比叡山の僧としての仕事と朝廷との交渉、そして大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件にも林羅山

と共に深く関わっています。

その他にも家康の死後、「東照大権現」という神号を与えたことや、江戸という町を陰陽道や風水に従って都市構築を考えたという功績もあります。

 

天海が亡くなったのは1643年。

この時既に戦国時代を生きた武将の大半が亡くなっていました。

 

天海が光秀と言われる理由

では、明智光秀との共通点はどこにあるのでしょうか?

 

東照宮の桔梗紋と天海がつけた明智という地名

よく言われる共通点としては、日光東照宮にある像に明智家の家紋である桔梗紋が使われていることです。

 

ご存知の通り、徳川家の家紋は葵。

しかしそこにわざわざ明智家の家紋である桔梗紋を象ることに違和感を感じるというのです。

 

他にも東照宮のある日光には明智平と呼ばれる地域があり、この名をつけたのが天海だということも光秀説につながる大きな理由の1つです。

あくまで伝承なのですが、天海が土地に明智平と名付ける際になぜかと聞かれた時、「明智の名を残すためさ」と答えたとされています。

 

ちなみに明智は本来美濃(現在の岐阜県)にある土地の名前ですが、それを含めて関東の日光に明智の足跡を残そうとするのは何か特別な意味があると考えられてもおかしくないでしょう。

ただ、桔梗紋は何も明智家だけが家紋としていたわけではありません。

 

桔梗紋は本来清和源氏に共通する家紋であり、明智家をはじめ数多くの清和源氏系の家が少しづつ形を変えながら使用していった歴史あるものです。

それに日光東照宮の桔梗紋も決して明智家のものと完全に同じというわけではないため、ここで決めつけるのはやや早計です。

 

春日局との面識

徳川家光の乳母・春日局は元々光秀の重臣・斎藤利三の娘です。

のちに春日局が江戸城に入った際に天海に対し「お久しぶりでございます」と挨拶したとされています。

 

本能寺の変当時春日局は4歳くらいの幼子でしたが、利三は明智秀満と並んで明智家の副将でしたから光秀が彼らの屋敷に割と頻繁に往来していた可能性もあるかもしれません。

彼女が光秀と直接面識があった可能性もないことはないでしょう。

 

そもそも、個人的にそんな幼い頃に出会った人をしっかり覚えているのもまたすごいことですけどね・・・。

 

比叡山の石灯籠と天海の筆跡

比叡山には数多くの武将が寄進したとされる石碑が残っているのですが、そこには「光秀」と名が書かれた石灯篭もあります。

比叡山松禅寺にあるその石灯篭の日付は慶長20年(1615年)2月17日。

 

山崎の戦いで光秀が亡くなったとされるのは天正10年(1582年)。

にも関わらず光秀の名が残っているのはとても不思議です。

 

僧侶の名簿には俗名・光秀という僧侶がいたということもはっきりわかっています。

最も、これが「明智光秀」その人であるかという確証は全くとれていませんが、かつて『世界ふしぎ発見!』の2000年8月6日放送分で、光秀と天海が書いたとされる書状の筆跡鑑定が行われました。

 

その際にいくつか似通った字があり、専門家曰く「一緒に生活しているような人でないとこのように似た字を書くことはできない。おそらく2人は近親者である可能性が高い」との結論が出されました。

テレビ番組とはいえ、割と実証的にやっていることですから無視はできないでしょう。

 

徳川家康の一言

徳川家康は武田信玄と並んで明智光秀を最終的にはとても尊敬している人物でした。

家康は家臣の水野勝成に「光秀に倣って行動するように」と光秀の行動を家臣に見習わせるようにしていました。

 

これもまた俗説に過ぎませんが、家康と天海が初めて出会った際、彼らはまるで元から知り合いだったかのように4時間も話し込んでいたとされています。

 

以上のことから、その信憑性はどれも「言われてみればそうだけど・・・」というところまでは辿りついていますが、決定的となる傍証や裏付けが取れていないというところです。

一種のロマンの域を出ないといえばそれまでですが、実は通説の光秀が小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに遭って殺されたというのも羽柴方によって情報操作をされた様子がかなり伺えます。

 

具体的には、光秀を殺したとされる百姓の名が全く見当たらないこと、当の本人は恩賞をもらえるかと思った瞬間殺害されていること等です。

つまり、親戚にまで裏切られた光秀が再起するチャンスは皆無であったため、光秀は秀吉の情報操作を受け入れて織田家臣としての明智光秀を終えることとした、ということでしょうか?

 

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光秀=天海説の来歴

この説を最初に唱えたとされるのは明治~大正にかけての作家・須藤光暉(南翠)です。

彼の著書『大僧正天海』(1916年)では綿密な傍証の結果天海が明智光秀であるとする説の根拠が書かれていますが、昭和になって光秀の息子・小鶴丸の子孫であると自称する明智滝朗氏の『光秀行状記』(1966年)という本の中で主張したことからより一般的に広まるようになりました。

 

 

2013年、『本能寺の変 431年目の真実』という本を出版した明智憲三郎氏は滝朗氏のご子孫だと主張しています。

憲三郎氏は他にも本能寺の変に関する書籍を複数出版されておりますが、読み物としてはなかなか面白いものです。

 

天海が光秀ではないとする説

もちろんこの説は決して定説ではないため、諸説入り混じって知れ渡っています。

その中で代表的なのが、天海は本来東北の蘆名氏の出身であるという説。

 

しかし天海が用いた輪法紋と言われる家紋は蘆名家の家紋とは全く異なるものであること、天海の死の際に訪問に来たのが明智と関係ある寺ばかりで蘆名と関係のある寺は一切訪問がなかったというのも蘆名氏とは無縁であるという裏付けとして知られています。

 

ちなみに、蘆名氏の家紋は引両紋といって足利家にも通じる家紋です。

実は天海存命中から天海が12代将軍・足利義晴の落胤だとする説が唱え続けられましたが、これはこの家紋の相似が原因とされています。

 

最もよく言われているのが、天海は明智一族でこそあるが光秀本人とは一言も言っていない、よって他に該当者がいるはずだとするものです。

これは天海が高齢で亡くなったことに疑問を呈して、当時の平均的な寿命に当てはめるともっと他に可能性のある人物がいつはずだというのが根拠です。

 

例えば、光秀の息子・光慶がその説で最も有名です。

しかし朝廷との複雑な交渉を本能寺の変当時10歳程度だった光慶がコネもなくいきなりできるのかという疑問があります。

他には光秀の娘婿で湖水渡りで有名な明智秀満、かつて金城武氏や松田優作氏をモデルキャプチャーとして用いたことで知られたカプコンの『鬼武者』シリーズはこれを採用し、秀満=左馬介を天海として秀吉時代を扱った『新鬼武者』に再登場させています。

 

この根拠は秀満の出自、三宅氏は蘆名氏に通じる遠山氏であり光秀とも通じていた秀満が光秀と2代に渡って天海となったとする説、はたまた秀満の実父とされる遠山景行が天海だったとする説まであります。

しかしいずれも俗説の域を出ないものであり、現時点では学術的に考証されるほどのものではないとされています。

 

まとめ

死んだはずの光秀が実は生きていて仇である豊臣を滅ぼし、やがて徳川を擁立して自分が天下を取った、と考えるとロマンはあります。

だからこそ多くの人が書物を記し発表してきたのです。

それだけ織田信長を倒した明智光秀という一種のヒーローを好む人達は多いのでしょう。

 

しかしこれまで挙げてきた説はどこまでいっても噂話程度から逸脱していません。

現時点ではゴシップの類から切り離すことはできず、結局学説としては取り上げる必然性に欠けているように感じます。

 

日本の歴史の中で日本列島をいくつにも割るような戦乱の時代というのはいくつもあったはずです。

しかし戦国時代・幕末というのはその変革が急激であったことから古くから今に至るまで絶えず研究が行われているのです。

 

光秀=天海説自体は不確かなものかもしれませんが、追いかけていく過程でもっと意義ある発見があったらそれは学問の新しい道が開けた瞬間かもしれません。

 

今回の記事は下記の文献やサイトを参考にさせていただきました。

 

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