織田信長から足利義昭への意見書の内容とは?室町将軍の晩年の様子!

大名や国人が勢力拡大を狙って戦いを繰り返していた戦国時代。

その中でも室町幕府は存続し続けていました。

 

織田信長によって15代将軍・足利義昭が京から追放され、歴史の表舞台から消えてしまったかに思われがちですが、義昭は諦めずに幕府再興をかけて戦い続けています。

 

突然訪れた兄の死によって幕が開かれた義昭の将軍人生。

今回は、足利将軍家と足利義昭の最後の抵抗について見ていきましょう。

 

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義昭が15代将軍になるまでの経緯

室町幕府は初代将軍・尊氏が生きていた頃から全く安定しない政権でした。

 

鎌倉時代以来、武士は元から住んでいたり与えられたりした土地に根付いてから独自に基盤を築いていきました。

幕府とは本来そういう武士達の名目的な棟梁という意味合いで建てられたものですが、特に室町幕府の足利氏はさほど主体的に全国を統治しようという意志がなく、ある時は将軍の強権政治を恐れた守護に将軍が殺されることまでありました(嘉吉の乱)。

 

現代に例えるなら幕府はせいぜい京一帯管轄の本社程度、あとは支社が何十何百とあってどこもかしこも野心家ばかりというのが実態。

そして、やがて応仁の乱等をきっかけに将軍が一大名に操られるような事態に陥ると、日本は戦国時代へと突入します。

 

義昭は1537年、12代将軍・義晴の次男として生まれます。

将軍候補以外は強制的に出家させられるという足利将軍家の慣習にならって、義昭もまた幼少期から仏門に入り修行に励む毎日を送っていました。

 

しかし1565年、兄である13代将軍・義輝が京を支配していた三好氏の勢力争いの過程で暗殺。

義昭も命を狙われ監禁させられますが、側近達(若き日の細川藤孝らがいる)の活躍でどうにか京を脱出し近江国屋島村にて自ら将軍家当主であることを宣言します(このことから当時の義昭を屋島御所と呼びます)。

 

足利義昭坐像 出典:国史肖像集成 将軍篇(目黒書店)

 

しかし義昭自身の勢力は皆無に等しいので、近江の六角義賢や越後の上杉謙信等を中心とした各地の大名達に協力を仰ぎます。

この計画は当初うまくいきそうでしたが、三好側の勢力が反撃に出たことで失敗。

義昭は越前の朝倉義景を頼り越前に落ち延びますが、三好氏は義昭不在の隙を見て、かねてから擁立していた義昭の遠戚・義栄(よしひで)を14代将軍に就任させます。(生涯京には入らず摂津に滞在)

 

越前に落ち延びたもののいつまで経っても上洛する様子のない朝倉義景。

そのため義昭は朝倉家臣・明智光秀の警護のもと尾張の織田信長を頼ります。

 

将軍義栄が病死するという出来事も重なり、信長は義昭を擁立して京の三好氏の勢力を一掃。

義昭は信長の庇護の元で15代将軍に就任し、見事京に返り咲くことに成功します。

 

織田信長が義昭に宛てた意見書

義昭はスポンサーである信長をとても大事にしていましたが、信長と義昭では当初から最終目標がずれていました。

 

義昭が目指したのはあくまでも将軍による幕府の専制政治。

一方の信長が目指したのは将軍の権力を抑制し自分が実質的に権力を握ること。

 

正反対の考えの2人の関係が長く続くはずもなく、義昭は自分を軽んじる信長を討つために、各地の大名に信長討伐を依頼します。

そのメンバーは、朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺・大坂本願寺・上杉謙信・毛利輝元と名だたる面々。

姉川の戦いの時点では未だ義昭・信長は完全に対立していたわけではな異様ですが、信長が義昭に対し「意見書」という名の17条に渡る批判文を送ったことで、2人の関係が完全に絶たれてしまいます。

 

信長が義昭に送った17条の意見書は以下の内容。

(wikipediaから抜粋)

 

一、足利義輝様は宮中への参内を怠りがちでした。それゆえ、神の加護も無しにあのような不幸な最期を遂げられました。信長は日頃から義昭様に参内を怠りなく勤められるようにと申し上げておりましたのに、義昭様は近年怠りがちのようで信長は遺憾に思っております。

一、諸国の大名に催促して、馬を献上させていることは聞こえが良くないので、再考なさったほうが良いでしょう。必要がある時には、信長に申し付けてくださればそのために奔走すると約束なさったではありませんか。このように信長に対して内密に事を進めるのは宜しくないと思います。

一、義昭様は幕府の忠臣に対しては恩賞を与えず、身分の低い新参者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となってしまいます。人聞こえも悪いでしょう。

一、最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっております。将軍家の家宝類をよそへお移しになった事は京の内外に知れ渡っております。これでは信長が苦労して建造して差し上げた邸宅も無駄になってしまいます。とても残念なことです。

一、賀茂神社の社領を没収して岩成友通にお与えになり、岩成に賀茂神社に対し経費の負担をするよう表向きは厳命なさり、裏では「それほど気にかけなくても良い」とお伝えになったそうですね。そもそも寺社領を召し上げるという行為は良いことではないと思っております。岩成がもし所領に困っているのであれば、私が都合のいいように取り計らったでしょうに。このように内密に行動されるのは良くないですね。

一、信長に対して友好的な者にはどんなに下位の身分のものであっても不当な扱いをなさるそうで、彼らは迷惑しているそうです。そのような扱いをするのには、どういった理由があるのですか。

一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広(かんぜくにひろ)・古田可兵衛・上野豪為(うえのひでため)のことです。

一、若狭国・安賀庄の代官の不行跡について、粟屋孫八郎が告訴しましたが、私も賛同して義昭様に進言いたしましたのに、音沙汰の無いまま今日に至っております。

一、小泉が妻の家に預けてあった刀や、質に入れてあった脇差までも没収なされたようですね。彼が謀反を企てたりしたのなら別ですが、彼は喧嘩で死んだだけです。この措置は法規的に処理されておらず、人々は義昭様を欲深い将軍だと考えるでしょう。

一、「元亀」の元号は不吉なので改元したほうがいいと、民意を参考に義昭様に意見を申し上げました。宮中からも催促があったようですが、改元のためのほんの少しの費用も義昭様が出費なされないものですから今も滞ったままです。

一、烏丸光康を懲戒された件ですが、その息子・光宣に対する処置は妥当と感じるものの、信長は光康は赦免なさったほうが良いと申し上げたはずです。どなたか存じ上げませんが、密使を光康へ遣わして金銀を受け取って再び出仕を許されたそうです。嘆かわしいことです。今や公家は彼らのような者が普通なのですから、このような処置はよろしくないと思います。

一、諸国から金銀を集めているにも関わらず宮中や幕府のためにお役立てにならないのは何故でしょうか。

一、明智光秀が徴収した金銀をその地の代官に預けておいたところ、その土地は延暦寺領だと言って差し押さえになったようですね。そのような行いは不当です。

一、昨年の夏、兵糧庫の米を売って金銀に変えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど前代未聞、聞いた事がありません。兵糧庫に兵糧がある状態こそ、世間の聞こえも良いのです。義昭様のやり方には驚いてしまいました。

一、幕府に仕えている武将たちは戦など眼中に無く、もっぱら金銀を蓄えているようで、これは浪人になった場合への対策と思われます。義昭様もいざとなれば御所から逃げ出してしまうものと見受けられます。そのために金銀を蓄えていらっしゃるのでしょう。「上に立つものは自らの行動を慎む」という教えを守ることは義昭様にとっても簡単なことでしょう。

一、世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。ですから、しがない農民でさえ義昭様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて足利義教様がそう呼ばれたように。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。

 

つまり、義昭は信長側の人間に対してやたらに冷たく、為政者としてもふさわしくない行いばかりしているということで、信長が義昭との決別を表明したことを示しています。

 

義昭もさすがに怒って先述の信長包囲網を完成させ、武田信玄に上洛を催促します。

しかし、信玄は途上で病死。

 

残った浅井・朝倉等の勢力も既に落ち目で義昭は単独で抵抗ができなくなります。

1573年、義昭は反信長包囲網の崩壊を知りやむなく信長に降伏。

そして信長は義昭を京から追放し、実質的な「室町幕府」はこの時に滅亡したことになります。

 

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義昭が幕府の復権を諦めた瞬間

京を失ったとは言っても義昭は将軍職を解任されたわけではなく、幕府再起の可能性を諦めてはいませんでした。

義昭はやがて毛利氏を頼って広島県福山市にある鞆(とも)にたどり着き、この地に定住します。

 

これを鞆幕府といい、近年はこれを一種の亡命政権として認知し、室町幕府は存続していたとする見方もあります。

僕の故郷広島に幕府が存在したというのは嬉しいですが、形だけという感じなので少し複雑です(笑)

 

義昭は鞆から京都復帰を画策し、諸大名に上洛を促しています。

毛利家の当主であった毛利輝元にも上洛を手伝うように命令していましたが、結局は義昭の存在が織田信長との関係を悪化させるきっかけとなり、毛利は織田に攻め込まれることになります。

 

本能寺の変で信長が亡くなると、義昭は羽柴秀吉や柴田勝家、徳川家康らに上洛を取り付けますが、結局は秀吉が京を支配したために幕府再興は失敗に終わります。

秀吉の天下が確実なものとなると義昭は将軍職を辞任して出家。

 

ここで完全に義昭の室町幕府の復権という野望は断たれることになります。

 

秀吉の下での義昭の最期

秀吉が天下人になると義昭は領地を与えられて大名となり、後に御伽衆(相談役や話し相手)として秀吉に仕えます。

名門足利家の将軍が足軽出身の秀吉に仕えるというのは、下克上を象徴するような構図ですよね。

 

将軍経験者の義昭は数多くいた秀吉の御伽衆でも筆頭に名が挙がるような人物で、教養にも長けていたため武家同士の調停や公家との交流に尽力したのかもしれません。

プライドが高かったであろう義昭が秀吉の下でどのように過ごしたのかは詳しく分かりません。

ただ、秀吉の絶大な権力を目の当たりにした義昭に、室町幕府再興の野心は少しもなかったのではないかと思います。

 

人生の激しい浮き沈みを経験した義昭は、秀吉が亡くなったのと同じ年に亡くなります。

 

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征夷大将軍で居続けられた理由

義昭は京を追放された時点で将軍職を剥奪されていてもおかしくなかったはず。

しかし実際は信長も秀吉も征夷大将軍になることは生涯ありませんでした。

 

それは何故かと言うと、征夷大将軍は必ず源氏から排出するという慣例があったからです。

足利氏は源氏直系。

 

しかし織田氏は平氏の子孫を自称、羽柴・豊臣家は藤原氏を自称していました。

また、将軍辞任後も朝廷では義昭を「室町将軍」ということで扱っていたことから、朝廷にとっては秀吉政権もある意味では「室町時代」の延長戦なのかもしれません。

 

その後、家康が征夷大将軍となって、足利・豊臣の遺風は排除されます。

ちなみに、足利家の嫡流は義昭の孫の代に全員出家したことで断絶しています。

 

まとめ

戦国時代というと、幕府は役立たずでいる価値がないという認識だったかもしれませんが、実際は信長はおろか秀吉やその他の大名も長くその下で動いていました。

多くの大名は幕府の傘下でただ自分の勢力を伸ばすことが目標でしたが、幕府がそれを止められず戦乱を長引かせたことも事実。

 

それを崩して新たな時代を呼び込んだ信長・秀吉・家康というのはやはりこの時代でも異彩を放つ存在だったのですね。

義昭がやろうとした幕府独裁は、安定期ならさておき戦国時代においては結果として邪魔な発想でしかなかったのかもしれません。

それはひとえに幕府という日本の中だけの小さな枠組みでしか物を考えられなかった統治者の性でしょう。

 

もし義昭がもっと平和な時代に生まれていれば、或いは名君として違った活躍を見せてくれたかもしれません。

 

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