戦国時代に活躍した人物を語るうえで欠かせないのが、「大名、国人」という彼らの身分です。

武家社会の中でこれらの身分は世に出るために欠かせないものとなっていました。

 

普段教科書やドラマを見るときはただ何となく耳にする言葉ですが、戦国時代に限らず歴史というのは何も空想の産物ではなく、我々が今日生きている世界の過去の話。

当時の社会を理解するためには必ず理解しておかないといけない言葉なのです。

大名って何?国人って何?と聞かれた時に答えられる人は案外と少ないのではないでしょうか?

 

そこで今回は、戦国時代に活躍する戦国大名、またそれと併存した守護大名、そして国人について話を進めていきましょう。

 

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大名、国人の誕生と戦国時代まで

そもそも、大名という言葉は武家社会が成立する以前から存在しました。

本来の意味は読んで字のごとく「大きな名分(みょうぶん)」、つまり地方において特に大きな勢力を持った人のこと。

これが鎌倉時代以降になると、転じて多くの所領や部下を所有する武士という意味になりました。

読み方も「だいみょう」「たいめい」と2つあり、少なくとも室町時代においては「だいみょう」は富裕層、「たいめい」は大領主と解釈されていたようです。

 

鎌倉時代、源頼朝は逃亡した弟・義経を捕らえるために日本全国に守護・地頭を設置します。

地頭は土地や年貢の管理、守護は警察のような役割をしていたと思ってください。

 

そして、守護や地頭の指揮下で働く武士や、自らが地頭や領主となった武士を国人と呼びます。

 

戦国時代以前の武家社会においては、土地の名目上の領主は中央から派遣された守護のような人達です。

しかし、彼らは決してその地位に永遠についていられるわけでもないので、実際の支配権は長くその地に根付いた在地の武士が握っていました。

国人はその土地においては時に守護らを凌駕する権限を持っていたのです。

 

室町時代になると武士の反乱が相次いだため、幕府は守護に武士の抗争を仲裁する権利を与えます。

しかし、これにより守護が在地の武士と癒着するようになり、力を持った有力な守護達が支配力を強めていきます。

 

こうして幕府を凌駕する力を持った守護が「守護大名」となります。

守護大名は守護出身で、強力な力を持った者たちだと考えてください。

 

応仁の乱が始まる頃には、内乱続きで既に力を失っていた足利将軍家に代わって周囲の守護大名達が実質的に幕府を動かしている状態となっていました。

特に、中央に強い権力を持った大名達にはその息のかかった人物を本来の赴任先である土地に送り込み、自分は中央で政権を握っているということがよく見られました。

実際、応仁の乱は足利将軍家の家督争いを利用した守護大名達の抗争といった側面が強いですからね。

 

しかし、守護大名はどれだけ力を持っても肩書上はあくまで幕府に仕える家臣に過ぎません。

しかし、応仁の乱以降は日本全国で幕府の権威が失墜し、在地の国人同士が利権を巡って争いを繰り広げるようになりました。

この時、国人同士の反乱を抑えて力を持つようになったのが一部の有力な国人、そして守護大名でした。

 

彼らは自分が力を持ち出すとやがて幕府を見限ります。

そして自分が幕府の権限を無視して独自に法を制定して領地支配に乗りだし、自分が幕府を倒そうと考えるのです。

これが戦国時代の始まりで、この時代の有力者を戦国大名と呼びます。

 

守護・有力国人から戦国大名へ

応仁の乱をきっかけに戦国大名になった者には、それ以前から力を持っている者が多くいました。

駿河の今川氏甲斐の武田氏といった守護大名は、足利将軍家と同じく源氏の血を引く鎌倉時代から続く伝統的な武士でした。

似たような例では、藤原氏の血を引く薩摩の島津氏奥羽の伊達氏らも古くから日本に存在した家です。

当然彼らの下には多くの武士が従っており、戦国時代の当初は出自の正統性からも天下を握るのは彼らが一番早いと思われていました。

 

その他には元は地方の一介の武家に過ぎなかった国人が成り上がって大名となった者もあります。

例えば、最初の戦国大名と言われる相模の北条氏は、元は幕府に仕えていた伊勢義盛(北条早雲、素浪人出身というのは古い俗説)が後年幕府から独立を果たして大名化した者です。

 

近江の浅井氏土佐の長曾我部氏尾張の織田氏などがそうで、彼らは元は守護に仕える一臣下でしたが文字通り下剋上を果たして戦国大名になったいわば成り上がりものです。

油売りから親子二代でのし上がった美濃の斎藤氏、出自不明の一国人から急速に成長した三河の徳川氏も国人からの成り上がりだと言えますね。

 

 

まとめ

身分というのは時代を象徴するものです。

国人という概念は大名による支配が一般的になると消失し、守護という制度も信長政権以降は姿を消してしまいます(幕末に一応見ることはできますが、当然室町時代とは全く異なる概念です)。

 

室町時代には既に強い力を持っていた守護大名や国人の中には、当然ながら下剋上によって倒されてしまった者も数多くいます。

存続した大名でも後には没落し一家臣へと姿を変える家がほとんどでした。

こうした歴史上の身分の変遷は、明治維新以降も高貴な家でありながら政権獲得には至っていない徳川氏を見れば明らかですね。

 

歴史を見ると、こうした栄枯盛衰は必然で権威に頼った栄達がいかに儚いものかがわかります。

現代も安定の象徴だった企業や制度が崩壊に近づき、何が安定なのかわからないですね。

 

私達はこれから、こうした身分に寄りかかる必要のないようなしっかりとした実力をつける必要があるのかもしれません。

 



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