徳川家康・今川氏真・井伊直虎の転機となった武田信玄の駿河侵攻!

「桶狭間にて今川義元戦死。討ち取ったのは尾張の織田信長!」

 

その報せは当事者である織田や今川だけでなく、周囲の大名達にも大きな衝撃を与えました。

特に今川と同盟を結んでいた武田・北条にとっては外交方針を再考せざるを得ない状況となり、一旦統一されかけた東海地方は再び争乱の様相を見せてきました。

 

桶狭間の戦いから8年後、武田信玄は意を決して駿河侵攻を決断。

未だ再興の兆しが見えない今川はこれで決定打を与えられることとなるのです。

 

さて、この駿河侵攻に深く関係していた東海地方の面々達は、突如現れた外野からの襲撃にどのように対応したのでしょうか?

 

今回は、海道一の弓取り・今川氏の最期となる武田信玄の駿河侵攻の際に各有力者がそれぞれどのように動いたかについて見てみましょう。

 

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武田信玄が息子を犠牲に手に入れようとした海岸の地

武田信玄は、上杉謙信と信濃を巡って川中島の戦いに延べ11年もの歳月をかけたものの、ほとんど実利を得られないという結果でした。

謙信との調停にも力添えしてくれていた義元ですが、義元が亡くなったき今川にどれだけの力があるのかは微妙なところ。

信玄はひとまず今川氏真との同盟維持を文書にて確認しましたが、内心は心穏やかではなかったでしょう。

 

三河の松平元康(徳川家康)も氏真と手を切り信長の傘下へ。

一方の信長は駿河に深入りするつもりはなく、美濃の斎藤氏討伐に注力します。

 

この頃の信長は、信玄に対してはとにかく下手にでて正面衝突を回避しようとしていました。

当然当時の信長には信玄に勝てる実力なんてあるわけがないので妥当な外交戦略でしょうが、信玄からしても急速に安定感を失っている今川に全てを託すのは心もとない。

 

そこで信玄は信長からの同盟要請を承諾し、四男・勝頼の妻に信長の養女を迎えました。

信長はこれで敵の背後を気にすることなく斎藤討伐に専念することができ、信玄にもいきなり正面切って信長を考慮する必要がなくなりました。

 

こうして、信玄の頭に「駿河侵攻」がよぎった時、彼の嫡男・義信が意を唱えます。

それもそのはず、義信の妻は今川義元の娘です。

義信には親今川派の家臣が大勢存在し、武田は下手をすると信玄派と義信派に分裂する恐れさえありました。

 

信玄にはおそらく自分が家督を継いだ時の光景が目に浮かんできたことでしょう。

彼は若き日に父からクーデターによって家督を強引に継いだのです。

 

結果、信玄は義信とそれに連なる家臣を難癖をつけて自害を命じる他ありませんでした。

それから間もなく、三河の徳川家康から援軍要請が届きます。

 

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徳川家康と今川氏真

義元戦死で一番得をしたのは、結果として今川旧領を獲得した家康です。

彼はすぐさま織田と同盟を結ぶと、まずは立場を決めかねている駿河・遠江の豪族や同じ松平氏の反乱を鎮めることに専念します。

 

関東の大名なら誰もが欲しい駿河ですが、当時すぐさま狙える位置にいたはずの信玄と北条氏康は上杉謙信の小田原征伐に対応するのに精一杯で領地獲得の余裕はありませんでした。

 

上杉謙信という武将は戦国時代においても稀有な律義者。

関東管領を譲り受けたからといってその恩に報いるために毎年毎年しつこく小田原城に攻撃を仕掛けています。

 

本来の関東管領である上杉憲政は関東にいるのが道理ですが、かつて北条氏康に追い出されて越後に泣きついてきました。

謙信は憲政から関東管領を譲り受けたと同時に上杉家の養子となったので、管領に領地をお返しするという大義名分を律儀に守って出兵していたのです。

 

 

一方、踏んだり蹴ったりの氏真は家康の反乱に著しく憤っており、「三州錯乱(三河の野郎が乱心しやがった)」とついこの間までへいこら頭を下げていたはずの狸にいらいらしていました。

一旦は舅・北条氏康や幕府の仲介で家康と和睦するように勧められていましたが、結局家康が信長を選んだことでパアになってしまいました。

 

関連記事→かつて家臣だった徳川家康の庇護下で生き抜いた今川氏真の生涯!

 

「今川は早かれ遅かれ滅亡する・・・・。」

 

遠江の一豪族である井伊氏の目にもそれは明らかでした。

当時の当主・直親は徐々に徳川に寄ろうとしてはいたものの未だ今川の支配下にありました。

井伊氏のような小豪族にとっては、誰に付くかをあまりにも鮮明にしていると簡単に家をつぶしてしまうことになる。

そのために徳川にも今川にもいいように接近する必要があったのです。

 

しかし、直親が謀反の疑いをかけられて殺されるとその勢力は急速に萎まざるを得ませんでした。

 

信玄の来襲に諸勢力はどう動いたのか?

1568年、信玄はついに駿河に侵攻を開始します。

信玄は北条氏政に対して今川領の割譲を提案しましたが、当時の北条は親今川派であり拒絶されます。

 

そこで信玄は絶対に領地が欲しいに違いない家康を割譲相手として選びます。

もちろん家康はこれを承諾し、信玄と家康はなだれ込むように駿河に攻撃を仕掛けました。

 

氏真も家臣にこれを迎撃するよう命じましたが、仇討ち一つままならない氏真を見て既に多くの家臣団が離反を決意しており、今川軍は続々と信玄に投降します。

こうして、武田軍は殆ど戦わずして駿河に入り、氏真とその一行は馬に乗ることもままならず徒歩で重臣・朝比奈泰朝がいる掛川城に逃げるしかありませんでした。

 

しかし、信玄も喜んでばかりではありませんでした。

氏真の妻・早川殿は北条氏康の娘。

しかしその娘が無様な姿で城から追い出されたと知った氏康は信玄に激怒し、同盟を破棄されてしまいました。

 

同時に、信玄は家康との密約を反故にして遠江を秋山虎胤に攻めさせ自分の領地にしてしまいました。

この時に井伊家では内乱が起こり城主・直虎は井伊谷城を奪われてしまいました。

しかし、そこに家康が介入して井伊家の支配権を取り戻させるのです。

こうして、家康に恩を売られた形となった直虎は後に家康に付くことを決めます。

 

さて、信玄との同盟を手切れにした家康は独断で掛川城を攻め、ついには駿河・遠江を自分のものとしました。

氏真一行は結局氏康の元に逃げるしかなく、調停上は領主に服しながらも結果として旧今川領は北条・徳川の手に渡ることとなりました。

北条・徳川はこの際に同盟を結んでいます。

また、北条は武田の宿敵・上杉とも同盟を結んでおり、武田は結果として領地をまたも利益無しに終わることとなりました。

 

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武田信玄の晩年の誤算

駿河・遠江の支配権は未だ安定せず、徳川・北条・武田らが争い続けることとなりました。

北条は間もなく信玄の駿河侵攻を妨害し、三増峠にて直接対決をするという決断をします。

 

しかし、信玄は北条を抑えて再び駿河に侵攻し、ようやく駿河を手にすることに成功します。

直虎率いる井伊氏はこの時に一旦手にしたはずの領地を追われてしまい、結局は家康を頼って浜松に落ち延び家臣となる道を歩むこととなるのです。

 

信玄が駿河を獲得したのは1572年(元亀3年)、本来の駿河侵攻から既に4年もの月日が流れていました。

信玄らが東海地方に執着している一方、近畿では信長が斎藤を駆逐したのち瞬く間に中央勢力を駆逐して将軍・足利義昭を擁立、その上浅井・朝倉などに大打撃を与えることにも成功し天下の趨勢は信長に傾こうとしていました。

 

信玄はというと家康との約束を反故にしたことで信長からも嫌われてしまい夢の上洛作戦を大幅に遅らせてしまいました。

それから間もなく信玄は強引に上洛を行いました。

戦では家康を破って信長も肝を冷やしましたが、その途上で病に倒れ夢果ててしまいました。

 

一介の守護大名から天下をも狙えるであろう勢力にまでのし上がった信玄ですが、後に秀吉が川中島を訪れた際に言ったように「彼らは相争っている間に信長公に先を越されてしまった」のです。

信玄最大の誤算、それは信長の俊敏な外交戦略で駿河の地に目をくらまされてしまったことなのかもしれません。

 

まとめ

東海地方の世代交代は、今川義元→氏真とはいきませんでした。

ただ、武田信玄、北条氏康、徳川家康らがきちっと受け継いだかと言えばそうでもなく、結局最終的に安定するのは信長死後に秀吉が自分の子飼いを派遣するようになってからの事です。

 

結果として、信玄は口火を切りはしたものの川中島同様他勢力を利するばかりの道化になってしまいました。

著者が思うに、信玄は常にそのスタートが無理やりすぎるのです。

 

思えば、川中島の時も謙信が信玄を攻めた大義名分は「圧迫された信濃の豪族が信玄を憎んでいる」でしたからね。

北条、徳川、織田からも嫌われてしまい、そのツケは息子の勝頼が一心に背負わなくてはなりませんでした。

 

しかし勝頼も勝頼で上杉家の内乱の際に外交を誤って最期は滅亡してしまいました。

 

同じように戦国の雄として信長らに先駆けて登場した上杉は後に幕末まで大名の地位を保ったのとは違い、武田は再興もままなりませんでした。

こう見ると、信玄の裏切りの数々は後世にまで尾を引いているようにも感じます。

 

どんなに権力のある人間でも、最後に物をいうのはやはり真義なのかもしれませんね。

 

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