武田信玄の強さの秘密『孫子の兵法』と風林火山の意味を解説!

徳川家康や織田信長が恐れていた戦国武将・武田信玄。

信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに叩き潰し、その実力は戦国最強とも言われています。

 

そんな武田信玄が愛読していたとされるのが「孫子の兵法」という兵法書(合戦マニュアル)。

古来から日本人は中国の古典を読んで己を高めていったものですが、武田信玄も例外ではありませんでした。

 

武田信玄の軍旗に書かれている言葉で有名な【風林火山】の文言も孫子の兵法から引用したものです。

戦国時代の日本では次第に軍を組織的に動かすことが重要視されてきたので、『孫子の兵法』のような体系的に軍事を理解できる書物がとても重宝されるようになっていました。

 

しかし、『孫子の兵法』がいかに名著といっても数千年前に外国で書かれたもの。

これを現代(戦国時代の日本)に生きる戦国大名達はどこまで本質を理解できていたのでしょうか?

 

今回は、『孫子の兵法』と風林火山の意味、そして軍学と呼ばれる戦争を体系的に理解しようとする学問の発展についてみていきましょう。

 

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孫子の兵法の作者・孫武(そんぶ)とは?

『孫子の兵法』という名前の書物は厳密には存在しません。

正式名は『孫子』で、それを書いたとされるのは孫武という軍事思想家だとされています。

 

彼が生きたのは中国の春秋時代、今からおよそ2500年前のこと。

都の郊外に隠棲して自分が有する軍事理論をまとめることに専念した孫武が書き上げたのが『孫子』で、それは十三篇に及びました。

 

そして、孫武にはこんな逸話が残っています。

ある王様が孫武を都に呼び出し、彼の兵法が如何なるものかを問うことにしました。

 

すると孫武は、宮中の美女180人を集めて2つの部隊を編成し、それぞれ王の寵姫を隊長に任命します。

最初に太鼓の合図で左や右を向くように指示をし、その通りに右の合図を出す孫武。

しかし、女性達は右を向くどころかどっと笑いだしてしまいます。

 

孫武は「命令が不徹底なのは将である自分の責任です。」と言い改めて何度も女性達に合図とその意味を教えました。

 

しかし、2回目に同じ合図を出しても女性たちは命令通りに動きません。

すると孫武は「命令は既に彼女達も周知のはずなのにこれを受け入れないのは指揮官の責任です。」と隊長の2人を斬首しようとします。

 

王は自分が寵愛している姫なので、なんとか思い止まらせようとしますが、孫武は「一度将軍として王から受けたのだから、これは王命も同じ。止めることはできません。」と言って結局指揮官の美女を斬ってしまいました。

 

それから新たな女性が隊長に任命されるとその他の女性たちも顔色を変えて命令に従い、合図の通りに動く1つの部隊が出来上がっていました。

 

この出来事の後、王から認められた孫武は将軍となりました。

 

風林火山の意味と信玄の軍旗の実態

孫子を執筆した孫武のことが分かったところで、武田信玄の旗印で有名な風林火山の全文についてみてみましょう。

(以下はwikipediaを参考にしました)

 

故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆

「故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」

 

訳文

軍隊を移動させるときは風のように速く、陣容は林のように静かに敵方の近くでも見破られにくく、攻撃する時は火のように勢いに乗じておこなう。

どのような動きに出るか判らない雰囲気は陰のように、敵方の奇策や陽動戦術に惑わされずに陣形を山のように崩さず、攻撃の発端は敵の無策、想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら実行されるべきである。

 

訳文からも分かるように、風林火山は戦さの時の兵の動かし方や心得を説いたもの。

この部分に兵を動かす大将の大将の心得が集約されているような感じです。

 

 

僕は山梨県の恵林寺で現存する風林火山(孫子)の旗を見たことがありますが、旗は予想よりも全然大きく、異様な雰囲気を放っていて、戦場でこの旗を見た敵軍が戦意を喪失していたという逸話もうなずけました。

 

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『孫子の兵法』の成り立ちと日本への伝来

先述の記事を覆すようですが、そもそも孫武の記述は史書においてとても簡素で、はっきり言って孫武が実在の人物かどうかさえもよくわかっていません。

 

成立時期においても春秋時代とされる説と、それにしては記述に戦国時代の特徴も含まれていることから戦国初期とする説が有力です。

というのは、『論語』と『孫子』も同じく後世門人や弟子等によって大幅に加筆が加えられたと考えるのが一般的だからだそうです。

 

このテキストの編集作業は秦漢時代においても行われていたらしく、これが真実なら『孫子』は学者達によって原型を留めないほどに改変されたものなのかもしれません。

しかし、『孫子』の研究は後漢末にひと段落を見ます。

 

あの魏の曹操が『孫子』に注釈を加え、後世=これまでの学者達が手を加えた部分を削り、何とか原典に近いとされる『孫子』が完成したと伝わります。

これが現在我々でも見ることができる『孫子』の最も古い原型とされ、曹操の諡号から取って『魏武注孫子』と言われています。

なるほど、曹操は現代まで強い影響を与えていたことから『三国志』一の偉人と言われるわけですね。

 

ところで、『孫子』はいつ日本に伝わってきたのでしょうか?

一番古い記述では奈良時代の末期、『続日本紀』の西暦760年に吉備真備の元に下級役人が『孫子』を学ぶために派遣されていることがわかります。

 

吉備真備は若い頃に唐に留学し『礼記』や『漢書』を学んでいたことから、この際におそらくは『魏武注孫子』の流れを汲む『孫子』を読んだのだと思われます。

 

平安時代には『孫子』は一般的な学問の書として広く貴族の間に流行していました。

当時からいくつか実戦において『孫子』を活用したという例もありますが、当時の日本の戦は一騎打ちや礼、名乗りを重んじた個人主義という考えが強く、『孫子』のように組織を操って勝利を導くという考え方は一部の例外を除きさほど浸透していなかったようです。

 

 

そんな時代は平安、鎌倉、室町とおよそ700年にもわたって続きました。

というのも、当時の武士達は本を持っていても読解できるとは限らず、もっぱら寺での講義で知識を吸収するしかないという武士の教養感が長い間引きずられていたからです。

 

いざ戦国時代になっても、『孫子』が必ずしも有名であったかどうかは定かではなく、信玄のような一部のいわゆるマニアでなければその意味も理解していなかったとされています。

 

当時は太公望由来の『六韜(りくとう)』等のほうがよっぽど主流だったようで、『孫子』はかなりマイナーな立ち位置だったようです。

 

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しかし、江戸時代になると戦国時代の戦の研究に利用する形で『孫子』等の漢籍が用いられることが多くなり、やがて『兵学』という学問が医学や儒学と並んで成立することになったのです。

でもこれは現在我々が意識する戦略・戦術理論の解釈はやや下火で、戦の無い世の中においては武士道を探求するための倫理観教育として発展していきました。

 

今日と同じような形で受容されるようになるのは明治時代以降で、西洋式の軍事理論を取り込んだことで『孫子』も近代国家を作り上げるために研究されることとなりました。

やがて戦後を迎えると広く一般にも読まれるようになり、今日では小説や漫画といった創作の世界で兵法書の存在があたかも万能な軍事バイブルのように扱われるようになったのです。

 

なので、当時の戦国大名達が必ずしも私達と同じように『孫子』等の漢籍を用いていたかというととても怪しいです。

 

しかし、当時は誰でも等しく教育を受けられる世の中とは違い、『知っている』だけで人が重用された時代。

それを考えると漢籍の知識も或いは一種の知識競争の道具として使われていたのかもしれませんね。

 

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