徳川家康の正室・瀬名(築山殿)の生涯と長男・信康の切腹事件!

徳川家康はその人生の半分以上を幕府を創る江戸ではなく、三河・遠江にて過ごしました。

そのため、徳川家の重鎮には駿河・遠江と関係する人物が大勢います。

 

井伊氏や小笠原氏も元は今川に仕えた一豪族なので、地縁・血縁というのは特に日本社会においては古くからなかなか切れないものなのだなあとつくづく感じます。

 

さて、家康は義元配下だったころに最初の正室・築山殿を迎えています。

彼女は立場上は今川義元の養女となっていますが、その出自は謎に包まれています。

 

おんな城主直虎では、菜々緒さんが瀬名という名前で若き日の築山殿を演じているのですが、実は、家康は後に瀬名と、彼女との子である長男・信康を自害させているのです。

神君家康公の生涯において最大の汚点ともいえる信康切腹事件ですが、その謎は今もって明らかにされていません。

 

そこで今回は、家康の正室・築山殿と信康切腹事件についてみていきましょう。

 

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瀬名(築山殿)は実は井伊氏の血を引いていた?

築山殿(おんな城主直虎の中では瀬名という名前)は、今川家の重鎮・関口親永(せきぐちちかなが)の娘として生まれました。

母親は直虎の曾祖父にあたる井伊直平の娘・佐名で、佐名は一度、今川義元の養妹となって関口親永に嫁いでいます。

 

そのため、瀬名には井伊家の血が流れており、この瀬名がのちに徳川家康と名乗る松平元康の元へ嫁ぐことになります。

 

当時の松平元康は今川家に仕える身分。

そのため、元康と瀬名の結婚は、松平家を支配しようとする今川義元の意向を大いに汲んだ結婚でした。

 

2人の結婚は1557年の事。

そして、それから2年後の1559年には長男の信康が生まれます。

家康独立と瀬名の苦難

1560年(永禄3年)、桶狭間で義元が戦死すると家康は独立を画策し今川家から早々に離反します。

これによって瀬名の父とされる関口親永と母親の佐名は、今川氏真から怒りを買って自害を命じられました。

 

つまり瀬名にしてみれば、夫である家康が今川を裏切ったために自分の両親が処断されるという、とても辛い状況でした。

さらにこの時、瀬名は息子の信康と共に駿府館で人質とされてましたが、人質交換によって無事に家康の元に帰っています。

 

しかし、無事に家康の元までたどり着いた瀬名でしたが、姑の於大の方(おだいのかた)が瀬名を嫌っており、結局、岡崎城に入ること許されませんでした。

しかも、瀬名は岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で幽閉生活を送ることになります。

 

この時に瀬名が幽閉された土地の名前は築山。

つまり、瀬名は幽閉されたちの名前をとって、築山殿と呼ばれるようになるのです。

 

幽閉地の地名が名前になるというのは少しかわいそうな気がしますよね・・。

 

ではなぜ、於大の方は瀬名を嫌っていたのでしょうか?

それは、家康の父・松平広忠はかつて義元の命令で無理やり於大の方を離縁したという過去があり、於大の方は今川に連なるものを特に忌み嫌っていたからだとされています。

 

政略結婚だったからというのもあるかもしれませんが、瀬名は徳川家からはあまり歓迎されていない存在だったのかもしれません。

 

後に、家康と瀬名の子供の信康が、織田信長の娘・徳姫と9歳で結婚し岡崎城で暮らすこととなりますが、この時も瀬名は幽閉状態。

 

幽閉が解けたのは1570年のことで、家康が遠江浜松城に拠点を移した時でした。

 

元服した信康は正式に岡崎城主となり、1575年には長篠の戦いでも活躍。

岡崎城主としての信康の戦いぶりは凄まじく、家康も彼の戦上手に感心するほどでした。

 

しかし、当時の信康と徳姫の間には2人の娘がいましたが、男児はいませんでした。

この時に、瀬名が男児を生まない徳姫を案じて信康に複数の側室を持たせるのですが、この行動が信康と徳姫の歯車を狂わせることになります。

 

築山殿のお節介?

築山殿が側室をつけたことは徳姫にとって面白いことではありませんでした。

男性が側室を持つのはこの時代普通の事でしたが、どうもこの時期に徳姫は信康に対しへそを曲げてしまっていたらしいのです。

 

心配になった家康、信長が相次いで岡崎を訪れご機嫌伺いをしているところを見ると、夫婦仲は相当深刻だったのかもしれません。
古い説では「元から築山殿と徳姫の仲が悪く、その上、頼みの信康までもが築山殿に味方していたことが徳姫を失望させた」とされています。

 

さらに、徳姫は織田との交渉役だった酒井忠次に12カ条の手紙を託し、信長に届けさせます。

その中で徳姫は「現在私は夫・信康とは不仲である」「築山殿は武田勝頼と内通している」と記し、信長はこれを見て「三河殿、おたくの正室と長男が武田に内通しているらしいから、自害させなさい!」と家康に命令し、家康は泣く泣く2人を手にかけたとされています。

 

つまり旧説によると、徳姫との不仲が信康と瀬名を死へと追い詰めたということになります。

 

家康と信康の軋轢が本当の理由?

しかし、多くの作家は、この事件を家康・信康の派閥争いの結果だと結論づけています。

 

そもそも、信康の岡崎城主という立ち位置は直轄領から切り分けたものとは違い半ば信康独自の領地。

家康の領地はおおざっぱに言うと三河・遠江しかないのですが、そのうちの1/4が信康のものということになります。

 

つまり、この当時徳川家は家康社長と同時に信康子会社社長という状態になっていました。

 

大名が息子を家臣の養子に出して嫡子だけに自分の家を継がせるというのは、いわば後継者争いを防ぐための措置。

しかし当時の徳川家は弟・於義丸(後の結城秀康)はまだ幼く、後には生まれたばかりの長松(後の徳川秀忠)がいるだけ。

 

そうなると、既に元服した信康に自然と大きな権限を与えないといけなくななったのではないかと思います。

 

さらに、信康は若い頃の家康そっくりで、家康の命令に従わないこともしばしば。

そのため、岡崎にいた家臣は段々と信康の意見に流されていったという部分もあります。

 

これが、家康にとって信康がクーデターを起こす危険分子であるという疑念を生みだしたのかもしれません。

 

切腹命令を出す1年前、家康は三河にいた自分のお膝元の家臣団に「今後は信康の命令に従わなくてもいい!!」と怒りの命令書を下しています。

 

どうも長篠あたりから信康は武功を挙げたばかりに若気の至りかいささか増長していたような節も見えてきます。

 

そこに追い詰めらえた徳姫が酒井忠次を通じて「最近信康様が私にとても冷たいの。どうすればいいのかしら?」、「今家族仲が悪くて居づらいから、お父さんどうか助けて!!」とヘルプサインを送ったとするのが最も自然ではないでしょうか?

 

実際、最も史料に忠実な信長の返答は「家康のよきに計らえ」と、全く信康を殺すようには支持していません。

 

しかし、そういう嫁のレスキューサインを敏感にかぎ取った家康はすぐさま忠次を呼び出し詰め寄ります。

「あんたが信長様の所に行ったのは、信康の事だろう。で、信長様は何と言ったんだ?さあ、返事を見せなさい。さあ!!」

 

大殿の命令とあれば逆らうわけにもいかず、忠次は止む無く信長の返答をありのままに伝えます。

すると家康はどうとでも解釈可能な返答にニヤリとし、これを「じゃあ俺の判断で信康を切腹させまーす!!」と嬉々として信康切腹を命じた。

 

もしかすると、信康切腹事件はこれが全貌なのかもしれません?

 

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なぜ築山殿まで殺さなければならなかったのか?

しかし、信康と家康の争いに築山殿は関係ないはず。

それなのに、なぜ築山殿も自害を命じられたのでしょうか?

 

通説では、築山殿が武田勝頼に内通し謀反を企んだため自害を命じたとしています。

もしかすると本当に築山殿は武田家に内通していたのかもしれません。

 

しかし、築山殿と家康の夫婦仲も既に見た通り決していいものではなく、築山殿と於大の方の嫁姑の仲も良くはありませんでした。

 

そう考えると、築山殿は徳川家の中ではすでに孤立しており、信康の処罰に関連づけるようにして一緒に処罰されたと考えることもできます。

 

どちらにしても、築山殿の死は徳川家の中での孤立が招いたものだと見ることができるのではないでしょうか?

 

 

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