寿桂尼(じゅけいに)が今川家の女戦国大名と呼ばれた理由!

戦乱の時代ほど、立ち上がった女性が注目されるのが世の常です。

日本にも数多くの女傑がいますが、今川家を長きに渡って支えた寿桂尼(じゅけいに)もその1人だとされています。

 

寿桂尼は守護大名から戦国大名へと成り上がった今川家の栄枯盛衰を見届けた貴重な人物で、『おんな城主 直虎』でも主要人物として取り上げられています。

 

女性の立場を重んじるようになった21世紀の日本では、彼女や直虎のような女性がこれからもまだまだ取り上げられることでしょう。

そこで、今回は寿桂尼の生涯と彼女が成した役割についてみてみましょう。

 

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今川家を盛り立てた夫・氏親

詳しい資料がないので、寿桂尼の俗名やはっきりとした生年は不明ですが、恐らくは1490年代の生まれだと考えられます。

戦国大名でいうと毛利元就らが同世代です。

 

寿桂尼は藤原北家(道長等、藤原家で最も栄えた家)の流れを汲む中御門家の出身で、足利将軍家とも近い今川家との交流も深かったと考えられます。

夫・今川氏親は元々北条早雲によって擁立された立場でしたが、彼らが結婚する1500年代には早雲は今川から離れて独自の勢力を築くようになっていました。

 

氏親は寿桂尼との関わりの中で公家の教養を学び、朝廷と強い結びつきを持とうと画策。

その過程で学んだのが和歌や蹴鞠を学びますが、氏親は決して貴族かぶれの軟弱な武将にはならず、駿河一国に過ぎなかった領国を遠江まで広げるなど、戦国大名今川氏を創った人物に成長します。

 

しかし、晩年は病気がちで寝込んでばかりだったことから、寿桂尼が政治を補佐するようになったと言われています。

 

その後、氏親の晩年に、安定しない領国に治安をもたらすべく『今川仮名目録』が制定されますが、これには寿桂尼も関わっていたという話もあります。

 

やがて氏親は1526年(大永6年)に病没。

この当時、武田信玄、上杉謙信、織田信長といった英雄達はまだほんの幼子か生まれてすらいない状況。

未だ室町幕府の権威が細々と生きていた時代から、寿桂尼は戦国の世を見ていたのです。

 

駿河の女大名として

1526年(大永6年)、氏親の跡を継いだのは寿桂尼の実子で長男・氏輝でした。

しかし家督相続当時、氏輝はまだ14歳。

 

政治は実質的に寿桂尼が主導していました。

寿桂尼が発給したとされる文書は現在25通ありますが、そのうち13通が氏輝期のものであり、少なくとも当初は寿桂尼が事実上の当主で、やがて氏輝が成人すると親政を開始します。

 

氏輝の時代、今川家は領内の安定を第一とし内政に尽力します。

外交面も相模の北条氏綱(早雲の子、氏康の父)との同盟を維持し、甲斐の武田信虎(信玄の父)と争うなど徐々に独立した大名としての地位を固めていきます。

 

しかし、氏輝も23歳という若さで病没。

当時氏輝の後継者の立場にあった彦五郎なる人物(続柄不明)も亡くなっており、残るは出家していた氏輝の2人の弟・梅岳承芳(ばいがくしょうほう、寿桂尼の実子)と玄広恵探(げんこうえたん、母は福島越前守の娘)でした。

 

寿桂尼と太原雪斎は梅岳承芳を還俗させて今川義元と名乗らせ、甲斐の武田信虎と和睦させます。

 

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しかし、これに福島越前守は反対し玄広恵探を擁立。

玄広恵探派は花倉城に籠って応戦しますが、義元派はこれを包囲し玄広恵探を自害させます。(花倉の乱)

 

義元はこれに連なる小さな反乱を瞬く間に平定すると、改めて家督相続を宣言し当主となりました。

 

その後の義元は尾張の織田信秀(信長の父)を最大の敵とし、武田晴信(信玄)・北条氏康とは同盟を結んで駿河・遠江に不動の勢力を築きます。

 

そして、三河の松平氏を手中に収めたのもこの時。

 

寿桂尼は義元の治世期にはそれほど目立った行動はしていません。

もしかすると、義元に政治を任せて安穏たる老後を過ごしていたのかもしれませんね?

 

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桶狭間での敗北と寿桂尼の政治

しかし、1560年(永禄3年)、義元が桶狭間で織田信長に打ち取られると状況は一変。

跡を継いだ孫の氏真は形式上当主となっていたものの経験が浅く、桶狭間の戦いによって今川氏は有力な家臣を相次いで失っていました。

 

関連記事→かつて家臣だった徳川家康の庇護下で生き抜いた今川氏真の生涯!

 

さらに今川を見限りどんどん離れていく国人領主たち。

この時、寿桂尼はかつて氏輝が家督を継いだ時と同じように盛んに文書を発給し、小領主の慰留に努めています。

 

外交では北条や上杉との連携を重視し、幕府とも連絡を取るなどしてかつても繁栄をどうにか取り戻したいと考えていました。

 

しかし、今川家の衰退は簡単に止められるものでなく、肝心の氏真は早くから家を見限っていたのか、遊興に耽り政治を顧みなくなったとされています。

 

特に甲斐の武田信玄は義元死後から一転して信長や家康にすり寄るようになり、今川との同盟は形だけのものとなっていきました。

 

 

そして1568年(永禄11年)3月、寿桂尼も衰退する今川家を止めることができないまま死去。

「死しても今川の守護たらん」とする彼女の願いにより、菩提寺は今川館の東北、鬼門にあたる竜雲寺と決められました。

 

しかし寿桂尼の死後、信玄は狙いすましたかのように駿河侵攻を開始し、それに徳川も呼応。

戦国大名・今川家はついに滅亡します。

 

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

寿桂尼の人生は最期まで苦悩の連続でした。

 

氏親が病に倒れて以来、彼女には気の休まる日は1日もなかったのかもしれません。

戦乱の時代、女性が立ち上がる時は得てして落ち目の家を守り中興の祖となることが尊ばれているような気もしますが、彼女の場合も家・時代がそうなるように求めていたゆえに今川の守護神となったのでしょう。

 

戦国大名としては滅んだ今川氏ですが、氏真の家系は遠く後に江戸幕府高家として存続し幕末までその命脈を保っています。

 

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