井伊直親を討ち取った朝比奈泰朝の今川家再興をかけた生涯!

井伊直虎の夫となるはずだった井伊直親ですが、最期は今川氏真から謀反の疑いをかけられて殺されてしまいます。

そして、その直親を直接討ち取ったのは、今川家の重臣・朝比奈泰朝。

 

信玄・謙信・信長・秀吉・家康・・・有名な戦国大名の家臣であれば知っている人も多いと思いますが、今川氏の家臣となると詳しく知っている人はほとんどいないと思います。

 

それというのも、今川義元が桶狭間で死んでからが私達のよく知る戦国時代であり、それ以前の戦国時代というのは教科書でも省略されているところだからです。

 

しかし、今川氏も戦国を代表する大大名。

歴史を知るためには、何も有名人ばかりではなくこうした「マイナー」な人物についても知っていく必要があります。
今回取り上げる朝比奈泰朝は、時代が徐々に信長や秀吉に傾いていく中で、最後まで今川氏のために戦い続けた忠臣です。

 

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今川義元だけでなく公家との繋がりをもった朝比奈氏

朝比奈氏の出自には藤原北家の流れを汲む家、もしくは鎌倉時代の御家人・和田義盛から成る家である等の説がありはっきりしていません。

 

朝比奈という名前は元々駿河にあった朝比奈郷という荘園から名づけられています。

やがて戦国時代になると今川氏に仕えるようになりましたが、朝比奈氏には遠江朝朝比奈氏と駿河朝朝比奈氏の二家に分裂していました。
朝比奈泰朝の生年は一説に1538年(天文7年)とされていますが、正確な年代はよくわかっていません。

ちなみにこの年には主君となる今川氏真も生まれています。

 

彼は元から氏真に仕える運命だったのでしょうか?

他には前田利家、北条氏政、鍋島直茂、本多正信等の有名人も同い年であり、泰朝は活躍する場所が違えば関ヶ原前後にも名を連ねていたかもしれない人物でした。

 

泰朝の父・泰能(やすよし)は氏親・氏輝・義元の3代に渡って仕えた今川家の宿老で、義元の母・寿桂尼(じゅけいに)の姪を妻とするなど、公家とも交流がある重鎮でした(妻は公家・中御門宜秀の娘)。

 

泰朝も若き日には公家の山科言継(やましなときつぐ)から百人一首をもらうなど、公家の文化に精通していました。

父・泰能が亡くなった1557年(弘治3年)、当時、今川家の軍師・太原雪斎も前後して亡くなっており、今川家は世代交代の時期に入っていたのかもしれません。

 

そして、泰朝は間もなく巨大な困難に遭遇することとなるのです。

 

義元の死、諸大名の反逆と井伊氏

1560年(永禄3年)、義元は尾張から織田の勢力を駆逐するために尾張へ侵攻を開始します。

この際に泰朝は直虎の父・直盛と共に鷲頭砦を攻めています。

 

その後大高城の援軍に向かいますが、間に合わず義元は桶狭間にて戦死してしまいます。

当時、今川家の家督は形式上既に氏真のものとなっていましたが、前当主の義元が敵に討たれてしまったという事実が、諸勢力につけ入る機会を与えてしまいました。

 

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その最たる例が三河の松平元康(徳川家康)で、彼は早速今川氏から独立を宣言し信長とくっついてしまいます。

その他にも三河・遠江の各豪族が次々と不穏な動きを見せる中、泰朝はあくまで氏真を補佐していました。

 

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1562年(永禄5年)、当時の井伊家は桶狭間で戦死した直盛に代わって直親が継いでいました。

直親の家老・小野政次は徳川と結ぼうとした直親を廃して井伊家を乗っ取ろうと画策し、氏真に直親謀反の讒言を行います。

 

そこで氏真は泰朝に命じて直親を誅殺させました。

泰朝は氏真の命に従い掛川城下を通過する直親一行を襲撃し、直親を討ち取っています。

 

これによって井伊家では唯一成人していた直虎を後継者とすることとなるのです。

 

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泰朝、最後の抵抗

1568年(永禄11年)12月、義元の同盟相手であった武田信玄が同盟を破棄して駿河へと侵攻を開始します。
当時、泰朝は信玄と敵対関係にあった越後の上杉氏との折衝にあたり支援を得ようとしていました。

しかし信玄は既に信長・家康と同盟を結んでおり大きな痛手を与えることはできません。

 

そのうち、今川方の国人が21人も武田に寝返り(駿河朝朝比奈氏もこの時に武田に寝返ります)、間もなく氏真の居城・駿府城(家康の時代とは違い城郭ではなく館)は陥落してしまいます。

 

この時、氏真を初め正室の早川殿を含めた一行は馬や輿を用意することも出来ず、徒歩で逃避行をするほかありませんでした。

 

一行は泰朝の居城・遠江の掛川城に逃れました。

しかし間もなく徳川軍が掛川城に侵攻し、掛川城では激しい防衛戦が行われます。

泰朝は5ヶ月に渡って持ちこたえ、家康も城攻めに難航して徐々に食糧難に陥りました。

 

しかし、そこで信玄から停戦協定が持ち掛けられます。

泰朝には当然受け入れられないものでしたが、多勢に無勢では勝ち目はありません。

 

氏真自身が同意したこともあり、掛川城は落城。

ここに戦国大名としての今川家は滅亡したといってもいいでしょう。

 

協定には「氏真を駿河の国主として認める」との記載がありましたが、無論中身のない条文でしかなく一行は城から退去するしかありませんでした。

 

その後、氏真らは妻の実家である北条氏康を頼ります。

その間も泰朝は上杉に向けて協力を要請するなど、あくまで今川家の再興を目指していました。

 

駿河・遠江では未だ幾つかの豪族や家臣が徳川・武田に反抗していたからです。

以後数年間にわたって係争が繰り広げられます。

 

北条氏康も氏真を擁して駿河・遠江を手に入れようと画策したようで、氏真を駿河方面の仮の領主とし、氏真に多数の命令を発給させています。

 

しかし、1571年(元亀2年)までには今川残党の勢力は降伏し、氏真の復権は有り得ないものとなりました。

 

折しも、親今川の氏康が没し、後を継いだ氏政は反今川に転じて家康と結びました。

こうして、氏真は身の危険を感じて家康を頼り、駿河支配の大義名分は家康に帰するところとなりました。

 

氏真は家康のいる浜松で暮らすこととなりましたが、泰朝はこれに従っていないとされています。

 

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その後の泰朝についてはよくわかっていませんが、一説には徳川家の酒井忠次に仕えたという話もあります。

長篠の戦いの時期に氏真の家臣が家康の直参となったことも含めて、私も、泰朝は最終的には徳川の傘下に入って東海地方に帰属したのでは?と考えています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

今川氏や井伊氏など、家康は勢力を拡大するにあたって元々いた大名や豪族を取り込んで支持を集めています。

 

泰朝も氏真が復帰する見込みを無くした頃から転身した可能性はあるでしょう。

或いは上杉にでも逃げて岳飛や鄭成功のようにあくまで再起のチャンスを待っていたのかもしれません?

 

いずれにしても家康の支配が揺らぐことは2度とありませんでした。

最も、氏真は殺されたわけでもないので泰朝が家康を恨む大義名分は全くないのですが(笑)

 

現代の企業でもそうですが、合併された側の社長はその後も何らかの肩書を与えられて落ち着くことはよくある事ですが、その側にいた重役達はその後高位高官を保てるかというと、そうとは限りませんね。

 

朝比奈家は今川家にとっては重要な立ち位置を持つ名家でしたが、徳川にとってその威光は所詮は過去の遺物に過ぎなかったのでしょう。

泰朝がもし徳川家に仕えて力をなくしたのだとしたら、彼は今川から徳川に時代が変わっていく過程での犠牲者の1人だったのかもしれません。

 

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