かつて家臣だった徳川家康の庇護下で生き抜いた今川氏真の生涯!

戦国時代を制し江戸幕府の開祖となった徳川家康ですが、その出生は決して順風満帆なものではありませんでした。

家康は幼少期から青年期の20年以上もの間、駿河の今川家で人質生活を送っていました。

 

しかし、今川義元が桶狭間で織田信長に敗れたことをきっかけに、家康は世に知られる大名として台頭していきます。

 

一方、そんな家康とは真逆に、『海道一の弓取り』とまで称されていた今川家は坂を転げ落ちるかのように急速に落ちぶれていきました。

私たちが抱くイメージは、時代の寵児だった父・今川義元とは違い、軟弱で公家気取りの息子・氏真(うじざね)によって今川家は事実上の滅亡に向かったというものです。

 

実際、今川家没落以降の氏真の消息を知る人はそれほどいと思います。

 

今回は、天下人となった家康と、神輿を下ろされてしまった今川氏真の密かな関係と氏真の生涯について見てみましょう。

 

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今川家が没落した経緯

1560年(永禄3年)、上洛を試みて西進を続けていた今川義元は、尾張の織田信長の領地を順調に制圧していました。

しかし、桶狭間で休憩中に信長自ら率いる奇襲隊に攻撃されて戦死。

 

義元の死によって、これまで今川家に従っていた豪族達は立て続けに離反し、駿河・遠江はしばらくの間、混乱状態が続きます。

 

義元の死によって1人で混乱を治める立場になった氏真。

しかし、20歳そこそこの氏真にはとても荷が重い状況となっていました。

 

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桶狭間の戦いに前後して今川家に従っていた豪族の多くは戦死し、権威を失った今川家を見限って松平や井伊をはじめとする東海地方の豪族が次々と独立、または離反を画策するようになったのです。

 

離反した豪族の1人に、井伊直政の父親で、井伊直虎の婚約者であった直親(なおちか)もいました。

 

今川家は義元の時代から、甲斐の武田信玄・相模の北条氏康と三国同盟を結んでいました。

しかし、義元の死をきっかけに信玄は今川家から駿河を奪おうと考えるようになります。

 

元々信玄の妻は氏真の叔母で、武田家の長男・義信は氏真の妹を妻としていましたが、義信は信玄と今川家対策を巡って対立し廃嫡、そして切腹を命じられたのです。

この事件をきっかけに武田・今川の同盟は破棄され、三国同盟は破綻してしまったのです。

 

しかし、氏真の妻・早川殿は北条氏康の娘でした。

北条家は未だ今川家を見限ることはなく氏真を助けてくれました。

 

氏真は盛んに文書を送っては臣下や国人の繋ぎとめを行い、商業の発展のために楽市政策を行いました。

これはあの信長よりも早い政策でした。

 

自分を裏切った信玄には、山に囲まれた甲斐では絶対に採れない塩の輸送をストップしたといわれていますが、どうもこれは史実にはそぐわない話のようです。

信玄は当時すでに織田・松平と同盟を結んでいたために経済的に困窮することはなかったようです。

 

1568年(永禄11年)、武田信玄は駿河へと侵攻を開始。

氏真は駿府城を失ってしまい、重臣の朝比奈泰朝の居城である掛川城に逃れることとなります。

 

この時の氏真一行の様相は悲惨で、正室の早川殿でさえも乗る輿さえなく徒歩で逃げるしかありませんでした。

 

どうにか掛川城に逃げた氏真一行ですが、掛川城のある遠江に信玄と領土割譲を約束していた徳川家康が侵攻を開始。

籠城戦は半年に及びましたが、信玄の仲介によってついに徳川・今川の間に和睦が結ばれ掛川城は落城となりました。

 

この時の約定にて氏真は形ばかりの駿河領主に復することとなりましたが、今川家は領土の所有権を完全に失いました。

歴史学の見解では、この時を以って大名・今川家は滅亡したとされています。

 

領土を失った氏真は妻の実家である北条家に身を寄せます。

実は今川家臣の中には未だに領土を保持し徳川や武田に抵抗を続ける者もいました。

 

氏真は彼らに対して文書を発給するなどして未だ領主としての行動を続けていました。

氏真にはまだ領土奪回の意志が残っていたのでしょうか?

それが実際には北条家の一家臣としての役割に過ぎないとしても、氏真には元国主としての責任がありました。

 

しかし、1571年(元亀2年)にはほぼ全ての今川残党が信玄・家康に降伏し、今川家の再興は不可能ということが事実上確定しました。

 

この年、長年氏真を後見してくれた舅・氏康が亡くなり義兄弟の氏政が当主となると、北条は武田と同盟を結ぶようになります。

氏真は身の危険を感じ、ついに家康の庇護を頼るようになるのでした。

 

この瞬間、今川氏真と徳川家康のかつての主従関係は完全に逆転してしまいます。

 

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氏真の晩年

今川氏真は家康の庇護下にあっては趣味である和歌や蹴鞠に没頭していたとされています。

有名なのが京都の相国寺で父の仇である信長の前で蹴鞠を披露し、気に入られたという話。

 

これが本当であれば、氏真はどのような気持ちだったのでしょうか?

父親の仇とこんな形で再会するとは、氏真は思ってもいなかったでしょうね。

 

では、家康の庇護下では悠々自適な生活を送っていたかというと、そういう訳ではありません。

実は大名の端くれとして一応戦にも参加したことがあります。

 

家康の危機であった長篠の戦いでは京都から三河へ出立し、後詰を務めています。

氏真は長篠の戦いの掃討戦にも参加し、戦後は牧野城の城主となりましたが、1年足らずで城主を解任となり間もなく剃髪して宗圁(そうぎん)と名乗ります。

 

以後はさほど政治とは関わらず和歌や蹴鞠をしたり公家の饗応役として名を連ねています。

 

それから秀吉が天下を統一するまでには京都に移住し、和歌の歌会や古典の書写に努めていました。

秀吉・家康の時代には京都で月々の俸禄を得ながら暮らしていましたが、この頃に秀吉や家康とどのような関係であったかは今一つわかっていません。

 

しかし主であり臣下であった家康とは長く交流が続いており、何かにつけては家康と面会をしていたようです。

天下人となった家康ですが、もう大名でも敵でもない氏真を無下にする必要もなく、旧主として丁重に対応していたようです。

 

氏真が亡くなったのは、ある意味盟友ともいえる家康が亡くなる1年前の1615年(慶長20年)でした。

氏真には4人の息子がいましたが、彼らも江戸幕府で大名となることはなく、今川家は高家として幕末まで続くこととなりました。

 

実は『忠臣蔵』で知られる吉良上野介も、今川家の遠戚です。

 

まとめ

氏真は大名としては失格だったかもしれませんが、文化人としては平穏無事に生涯を終えました。

というより、彼が当主となった時は既に今川家は滅亡を食い止めることができない状態でした。

 

義元は信長・秀吉・家康の一世代前の中では稀代の英雄だったのです。

それと比べるのは正直酷でしょう。

 

しかし、いつの時代も2代目は偉大な初代を直接比較されてしまう可愛そうな立場ですね?

 

ところで、家康は氏真に対しまるで危害を加えるようなことはしていません。

彼らは世代も近く、もしかしたら上下関係もなくなった2人は案外身分を越えた友人だったのかもしれませんね?

 

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