戦国武将は数多くいますが、皆さんは誰のファンですか?

私は実は誰が好きという特定の人物はさほど多くはありませんが、敢えて挙げるなら明智光秀です。

 

漫画や実際のニュースでもよくあることですが、意外な人物が歴史を動かすことになることは往々にしてあることです。

 

さて、数多くいる戦国武将の中でも彼らは皆それぞれ特技がありました。

それが最も発揮されたのは戦でしょう。

 

今回はちょっとお遊びで、戦で功績を挙げた武将達を各部門(大将・猛将・軍師)に分けて私が思う最強の武将を挙げてみたいと思います。

ここにあなたが思う武将はいるでしょうか?

 

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采配を振るって戦を勝利に導く大将編

おおむねリーダーは2種類に分けることができます。

それは、自ら前線に立つタイプと後方から指揮を執るタイプ。

 

戦国時代は前者のタイプがどうしても多いように感じますが、特別武勇に優れたわけでもない秀吉なんかは後者に分類するべきでしょう。

 

私が個人的に思う戦に優れた大将は、相模の獅子・北条氏康です。

 

氏康の大将としての凄さが分かるのは、何と言っても川越城の戦い。

桶狭間の戦い、厳島の戦いと並んで、日本三大奇襲戦と言われる一戦です。

 

氏康は家督を継いで間もなく危機に遭遇します。

当時、北条氏は山内上杉氏・扇谷上杉氏の両氏に圧力をかけて有利な状況にありました。

 

しかし、今川義元が関東管領の上杉憲政と通じて駿河に侵攻、同じくして甲斐の武田晴信も侵攻してきたために氏康は一気に不利な状況に追い込まれます。

そこに両上杉氏によって河越城が包囲されたという報告が入ってきます。

 

河越城は元来上杉氏の城でしたが、北条早雲・氏綱の2代に渡って幾度も攻撃されたことでこの時は北条が所有していました。

 

上杉氏の今回の攻撃は、河越城の奪還が目的でした。

この時の主要な上杉軍の面子は、関東管領・上杉憲政、扇谷上杉氏当主・上杉朝定、古河公方・足利晴氏、そしてその他関東の諸大名が打倒北条に向けて動き出しました。

 

氏康は義弟・北条綱成(つなしげ)に河越城の守備を任せると自身は急ぎ今川との戦線から離れて救援に赴きました。

当時の河越城の兵は3000、氏康本隊が8000でしたが、城を包囲するのは80000の大軍、落城は時間の問題でした。

しかし大軍に気を良くした上杉軍は軍律が緩み楽勝気分で軍備も甘くなっていました。

 

その隙を氏康が見逃すはずがなく、氏康は自軍を4隊に分けうち1隊を囮として戦闘終了まで動かないように命じ、自身は残る3隊を率いて上杉軍に奇襲をかけました。

 

すると、すっかり油断していた上杉軍はあっさりと崩壊、河越城に籠っていた綱成らも城から出て応戦し上杉軍は混乱を極めてしまいました。

こうして、旧態依然とした権威勢力達はその威信を地に落としてしまったのです。

 

上杉朝定はこの戦いで戦死し扇谷上杉氏は事実上滅亡、山内上杉氏もかろうじて生き延びたものの関東に居座るほどの力は残しておらず各地を転々とすることとなりました。

 

古河公方・足利晴氏はこの後氏康に幽閉されて権力を失います。

この戦いで北条氏康は一転関東随一の勢力として台頭することとなります。

 

当時は信長らの時代と比べて未だ室町幕府の権威を気にする勢力もいましたが、関東はここから戦国大名の時代へと移行を始めるのです。

氏康は絶体絶命の状況に追い込まれながらも、僅かな隙を見逃さずに状況を打破し次のステップへと進んでいきました。

 

実際に戦場で槍を奮って戦う猛将編

戦国時代、刀をもって戦ったのはごくごく少数の大将だけで、実際には長柄と弓矢が主要武器でした。

実際、槍を振るった武将はとても多く、「賤ヶ岳七本槍」を初め多くの猛将は槍を用いていました。

 

特に武勇に優れたとされているのは福島正則で、賤ヶ岳七本槍の中でも最も武勇で活躍した武将だと思います。

真田信繁も十文字槍を振るったと言われています。

 

家康の次男・結城秀康は御手杵(おてぎね)と呼ばれる全長3.8mの長槍を振るったとされています。

秀康は体格にも優れていたので、馬上からでならこうした長い槍も決して扱えないことはないでしょう。

 

他にも、黒田節で有名な日本号は黒田官兵衛の家臣・母里太兵衛友信が福島正則から酒の席での約束として譲り受けたものとして知られています。

 

現在保存されている日本号の太刀打ちの拵えには刀傷があり、実戦で使われていたとされる説が有力です。

友信が日本号を手にしたのはちょうど秀吉の時代で朝鮮出兵の際には友信も日本号を用いて実戦に出たのかもしれません。

 

関連記事→福島正則広島城無断修築で改易!!加藤清正の友の悲しい最期!!

 

そして、槍といえば何といっても本多忠勝です。

彼は桶狭間の戦いで初陣を飾って以来、生涯57戦一度も負けがない凄まじい化物でした。

 

 

忠勝は強気な性格で、伯父が忠勝のために手柄を譲ろうとして敵将を討ちましたが、忠勝はそれを断り自分で敵将を討ち取って初手柄を立てています。

長篠の戦いの際には戦後に閑散とした武田軍の様子を見て「これ以降は寂しくなりそうだ、なぜならもう俺の胸を熱くさせるようなやつはいないから」とどこか哀愁漂う様子でつぶやいたそうです。

 

生涯最後の戦である関ヶ原の戦いでも同僚の福島正則に「いやあ、さすがは本多殿です!」と褒められましたが「俺が強いのではなく、敵が弱かったのだ」と断言してしまいました。

実際、満身創痍だった井伊直政とは対照的に忠勝はまるで無傷だったというのです。

 

忠勝は亡くなる数日前、ふと不注意で指をケガしてしまいましたが、この時に「ああ、俺が怪我をしてしまうということはもう遠からず死ぬ日が来るのだな」とつぶやき、実際にその通りになったとも言われています。

 

老いにこそ勝てなかったものの、忠勝は本当に最強の槍武者だったでしょう。

 

関連記事→徳川四天王・本多忠勝の蜻蛉切と数珠の逸話!!

 

謀略・奇策を駆使して戦に勝った軍略家編

戦における謀略・奇策を駆使した人物は主に君主に多いような気がします。

彼らは人のコントロールが仕事なので頭を使う必要があるからです。

 

戦における逆転を起こして勢力を広げた大名は数多くいますが、私はその中でも真田昌幸を挙げたいと思います。

 

 

彼の知略が最も発揮されたのは上田に徳川軍が来襲した時です。

家康は真田と比べて倍以上の数で上田に攻めてきましたが、真田はそれに臆することなく対抗しました。

 

特にそれが顕著なのが、関ケ原の戦いの際の第二次上田合戦。

この時、真田討伐軍の中には徳川についた長男・信之もいました。

 

徳川軍の大将は秀忠、秀忠は信之に忠誠を試させるために信之に弟・信繁が籠る戸石城を攻めるように指示しました。

信繁は信之来襲を聞くとすぐさま城を空にして本拠の上田に帰りました。

 

これで、信之は無傷で功績を挙げることができた他、秀忠を誘い込むことにも成功したのです。

 

秀忠は上田にたどり着くと早速真田の兵糧を断つために周囲の田畑を全て刈り取り、そこを攻めてきた真田軍をも破ってしまいます。

こうして徳川軍は一気に上田城の門で迫りましたが、実はこれこそが昌幸の狙いでした。

 

昌幸はそこで門を開けると鉄砲隊によって一斉射撃、城内からも矢の雨で秀忠はすっかり嵌められていたことに気づきました。

慌てて撤退する秀忠軍ですが、翌日には信繁率いる兵200の部隊が秀忠本陣に奇襲をかけて混乱を引き起こし、秀忠はどうにか逃げることが出来ました。

 

さらに、真田軍がかねてからせき止めてあった神川の堰を切ると、大量の水が秀忠軍に流れ込んできました。

この戦では秀忠軍の戦死者は数知れずという記述が残っています。

 

真田は一度ならず二度までも徳川を防ぎ、結果として徳川政権は関ヶ原本戦で活躍した外様大名達に多くの恩賞を割かなければならなくなりました。

これによって江戸幕府の政権構造は家康の当初の予定からかなりずれた形となったといいます。

 

たったの一戦が後の世にまで影響をもたらした例は真田昌幸の上田合戦が一番でしょう。

 

関連記事→第一次上田合戦_上田城の戦いに見る真田昌幸の戦略!!

 

彼の謀略もさることながら、影響力の大きさを見ると軍略家として彼が一番なのではと思います。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

おそらく私が選んだ武将達は皆知っている人ばかりでしょうね(汗)

 

しかし、彼らの活躍は後世講談などで脚色されたものが多いのも事実です。

実態はどの程度だったのか、はたまたどこからが架空の産物となるのか、そうした視点で比較をしてみるのも面白いですよ。

 

ところで、戦での能力というのはあくまで彼らの一方面の能力に過ぎません。

 

実際はもっと色々な方角から人物を見て判断するともっと面白いかもしれません。

次に機会があれば、政治篇・コミカルなエピソード編も作ってみましょう。

 

当時の人々がどのように考えていたかを知るいい機会になるかもしれませんね。

 



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