今川義元の配下だった頃の松平元康(徳川家康)の苦難!

応仁の乱から150年続いた戦国時代を終わらせた徳川家康。

実は、彼が天下を狙える立場になったのは豊臣政権に入ってからの話で、若い頃は人質として苦労続きの生活を送っていました。

 

では、家康の人質生活はどんなものだったのか?

今回は松平元康と名乗っていた頃の家康に迫ってみます。

 

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松平家は元々家康の祖父・松平清康が当主に就任後僅か数年で三河を統一したところから勃興を開始します。

しかし不幸なことに清康は僅か25歳で斬殺されてしまいます。

 

そこで家康の父である広忠が頼みとしたのが海道一の弓取りと呼ばれた今川義元です。

 

広忠は幼少の息子・竹千代(家康)を人質として義元に差し出そうとしましたが、そこで戸田康光の謀反に遭い敵対していた織田信秀の元に誘拐されました。

 

今川家に人質として行くはずだった竹千代が誘拐されて織田家へ・・・。

ただ、そこで親睦を深めたとされるのが、信秀の次男・織田信長というのですから、運命のイタズラとは分からないものです。

 

そして、数年後。

信秀が義元によって勢力を弱められると、竹千代はようやく本来の目的通り今川家へとたどり着きます。

 

家康はこの時点でまだ10歳にも満たない幼子です。

幼少期からこのような生活を送っていたのですから、それはそれは想像を絶する苦労をしてきたに違いありません。

 

それでは、天下人・徳川家康の黎明期に迫ってみましょう。

 

幼少期、今川家で人質としてどのような生活をしていたのか?

竹千代(徳川家康)が今川義元の元にたどり着いたのは、信秀の子供・信広との人質交換が行われたためでした。

 

竹千代は父・広忠が謀反によって殺されてしまったため、松平家の当主となりますが、居城の岡崎城には義元が送った名代が入り、義元の居城・駿府城にてそのまま住むこととなりました。

 

つまり、竹千代を擁したことで、義元は三河を支配下に置くことに成功したのです。

 

竹千代はこの時期に当主としての教育を受けることとなります。

よく言われる伝承では義元の軍師・太原雪斎の薫陶を受けたというものですが、これもどこまで正しいかはわかりません。

 

1553年(天文24年)、竹千代は義元から偏諱を受けて元服、松平元信と名乗ります。

この時に元信は関口親永の娘である築山殿を娶ります。

 

築山殿は義元の姪でもあったため、この時点で元信は今川家の支配下にいることを前提として育てられたのだと考えられます。

 

後に祖父・清康の名前を取って元康と名を改めますが、相変わらず義元の偏諱を受けたままです。

この時点でも未だ15歳くらいの家康は、ただの人質から徐々に家臣として活動することを求められます。

 

彼の初陣は織田信長に寝返った鈴木重辰の討伐でした。

元康は城下を焼いて付近の地域を平定。

 

この功績で元康は義元から領地をもらい腰刀を賜ります。

元康の今川家での扱いは、外様の一家臣といった位置づけが最も正確かもしれません?

 

桶狭間の戦いと岡崎城奪還

1560年(永禄3年)、義元が長年の宿敵である織田家と決着をつけようと出兵した際に元康も先鋒として参陣します。

 

元康は、大高城の兵糧が足りないという知らせを受けたため、織田軍の鷲津・丸根砦を攻める部隊に加わって兵糧を確保することに成功します。

それから間もなく鷲津・丸根砦が陥落した後は大高城にて休息をとっていましたが、その時に義元本隊は桶狭間にて信長本隊から奇襲を受けて壊滅、義元も戦死してしまいました。

 

関連記事→実は今川義元は超有能?無能と評される理由と桶狭間での最期の様子!

 

元康は早々に大高城から離れて松平家の菩提寺である大樹寺に避難しますが、やがて大樹寺も包囲されてしまいます。

先祖代々の墓の前で自害を決意した元康ですが、住職である登誉天室(とうよてんしつ)によって説得され、思いとどまります。

 

この時に登誉が伝えた仏教用語が、徳川家康の旗印となる「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」。

『誰もが自己の欲望のために戦いをしているのだから、国土が穢れきっている。穢れた土地を離れて極楽浄土を願うのなら仏の加護を受けて事を成す』

 

穢れた現生を救うために今すぐ自分が立ち上がるべきだという教えに、家康は再起を図り僧兵と共に織田軍の追手を追い返すことに成功しました。

その後、早い段階で元康は義元の死で空白になっていた岡崎城の奪還に成功、かくして松平家は義元が死んで間もなく独立を果たすことになります。

 

大河ドラマなどでよく見る「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という難しい漢字の旗印。

この旗印にこんな意味があったとは驚きですね。

 

義元亡き後の今川家との関係

元康は桶狭間の翌年には旧知の信長と同盟を結ぶことに成功。

名前も義元からの偏諱を捨てて家康と名乗り、数年に及ぶ三河平定戦を制すると、朝廷から三河守の官位を賜り、姓を徳川と改めます。

 

1568年(永禄11年)、甲斐の武田信玄が同盟相手だった今川家を裏切って侵攻を開始します。

家康はこの機に乗じて信玄と同盟を結び、同じく駿河に攻め込みました。

 

これによって徳川は今川氏を事実上滅亡させ、本拠地を失った今川氏真は舅の北条氏康の所へしばらく身を寄せます。

 

当時、北条は駿河侵攻を行った武田とは敵対関係にありました。

しかし氏康が亡くなると子の氏政は逆に武田と結びます。

 

これによって氏真は氏政と不仲になり、身の危険を感じたため、かつて駿河・遠江を失った際に決めた「講和を期に駿河は氏真殿を改めて領主として迎える」という条文を頼りに家康の庇護を頼ります。

 

家康もかつての主君を無下にする理由がなく、家康と氏真の主従関係は完全に逆転しました。

氏真はその後浜松・または京都に滞在していたようで、公家との交流を通して幕府や朝廷と繋がりを持つためにパイプ役をしていたのではないでしょうか?

 

家康との交流はその後も長きにわたって続き、氏真は家康の下で城攻めや掃討戦に加わったり和歌を詠んだりしながらも断片的に家康と交流を続けていたことが史書には記されています。

 

氏真の息子達は後に2代将軍・徳川秀忠に仕えています。

家康と氏真は晩年にも交流を続けていたことがわかっており、戦国大名としての今川家は滅びながらもその血筋は高家として続くことになりました(但し、明治時代に断絶)。

 

氏真が亡くなったのは1615年(慶長20年)、ちょうど大阪の陣が終わる前の事でした。

それから間もなく天下統一を果たした家康も亡くなります。

 

家康が大御所となってから過ごしたのは、幼少期を過ごした駿府城でした。

徳川と今川の関係は天下統一まで続いていたのです。

 

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

家康・義元・信長はとても近しい利害関係の元にいたのですね。

家康は今川家の他に高家として織田家も保護しています。

 

彼らは揃って家康の黎明期に出会った宿敵ですが、彼らは特に滅ぼされるわけでもなくそのまま幕末までどうにか生き永らえることに成功しました。

 

家康が幼少期と晩年を過ごした駿府城は、家康死後も徳川頼宣(後の紀伊藩主)、徳川忠長(3代将軍・家光の弟)らが過ごすこととなり、明治維新の際には徳川家達が江戸城開城によって駿府城に遷ることとなりました。

 

それから間もなく廃藩置県の影響で駿府城は廃城となり現在は公園になっています。

駿河の地は家康亡き後も重要な場所として認識され続けていました。

 

家康にとっては、駿河は全ての始まりである忘れられない土地だったのです。

果たして、義元と家康は在りし日に駿府城でどのような会話を交わしていたのでしょうか?

 

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