真田信之の子供、真田信吉と信政はどんな人物だったのか?

いよいよ大坂の陣が始まった大河ドラマ『真田丸』。

信繁=幸村はこの戦いで討ち死にしますが、真田家はその後も徳川幕府の世で生き続けます。

 

関ヶ原の戦いで東軍についた信之(信幸)はその功績で上田藩95000石の大名となりましたが、大坂の陣には病気のために出陣せず、代わって2人の息子、信吉・信政が大坂に赴きました。

 

幸村が享年49歳で信之はこの時すでに50代。

その他の大名家も世代交代が始まっており、本陣の家康も新時代の到来を感じたことでしょう。

 

さて、戦国時代の後の真田家を支えた信吉、信政とはどのような人物だったのでしょうか?

今回は、大坂の陣ののちに藩主として活躍した彼らの生涯について見てみましょう。

 

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真田信吉ってどんな人?

真田信吉は、信之の長男(母は大叔父の真田信綱の娘)として1593年(諸説あり)に生まれました。

真田丸でいえばおこうの子供ですね。

 

当時の信之は従四位下の官位をもらっていた身分で、本多忠勝の娘・小松姫の婿として、ある意味徳川家の家臣として昌幸からは独立していた状態でした。

 

信吉が8歳くらいの頃に関ヶ原の戦いが起こると、信之は冒頭で述べた通り上田藩の藩主になります。

それからしばらくは戦のない世であったことから、信吉はこの次期に時期藩主として教育を受けていたことでしょう。

 

1614年(慶長19年)、大坂の陣では病気の信之に代わって信吉が真田の軍勢を率いました。

当時だいたい25歳くらいですので、十分に藩主代理としての役目を果たしていたようですね。

 

敵方に叔父がいることから、信吉・信政は当然徳川譜代の臣から怪しまれていました。

そのこともあって、信吉は親類筋の本多忠朝の指揮下で戦っています。

 

幸いなことに、管轄地域が離れていたため、叔父である信繁と直接対決となる事はありませんでした。

 

信吉の相手となったのは秀頼の側近・木村重成。

重成は信繁と同じ六文銭の旗を掲げた若武者がいるのを見て「信繁殿、あの六文銭の若武者は何者ですかな?」と聞きました。

 

信繁はそれが信之が使っていた旗であることを知り、自分の甥達だと答えると、撃ち落して木村殿の手柄としてくださいと答えました。

しかし重成は「おそらくこの戦いは和睦になるでしょうから、後日彼らに会ってください」と言って部下に銃を収めさせました。

 

当時、銃で狙撃されることは討ち死にの中でも特に不名誉なこととされていました。

そのため、後の真田家の名誉のためにも重成はわざと信吉・信政を無視したのだと伝えられています。

 

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やがて、重成が言った通り和睦が決定すると信繁は本家に気を遣って六文銭の旗を使わずに赤い旗を使うようになりました。

休戦中、信吉・信政は信繁の陣に赴き宴会を開きました。

 

信繁は真田の血を強く受け継ぐ信吉をとても気に入り、彼と頻繁に会話を交わしました。

その中で、信繁は「兄に会いたい」とこぼしていたようです。

 

大坂夏の陣が始まると、信吉の上司・忠朝は敵陣を目の前に大酒を飲んで戦に遅れるという失態を犯し、その後に討ち死にしてしまいました。

戦には敗北したものの、信吉はどうにか上田に帰還します。

 

この戦での功績で、信吉は信之とは別に沼田3万石を所領しました。

その後は酒井忠世の娘との間に娘の長姫(ちょうひめ)、側室との間には熊之助と信直の2人の息子を儲けました。

しかし、信吉は信之には側室との間に生まれた息子の存在を隠していたとされています。

 

1634年(寛永11年)、信吉は父に先立って江戸屋敷で40歳で亡くなります。

彼の跡は熊之助が継ぐこととなりました。

 

真田信政ってどんな人?

信政は1597年(慶長2年)、本多忠勝の娘・小松姫の娘として生まれ、関ヶ原の戦いの際には家康の元に人質として送られています。

 

信政もまた、信吉と同じように大坂の陣に参戦し、無事に生き残って帰ってきています。

信繁との宴会の際には、頻繁に会話を交わした信吉とは逆に、あまり信繁とは話さなかったと言われています。

 

信政は1617年(元和3年)、従五位下大内記に叙任。

その後、従四位下に昇進します。

 

1622年(元和8年)、信之が松代藩に転封すると17000石を分地されて大名として独立。

1634年(寛永11年)、兄が早世すると甥の熊之助の後見人として沼田の支配をおこないますが、1639年(寛永16年)、熊之助がやはり早世すると、代わって沼田藩主となりました。

 

沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟・平吉(後に信利)に、自分の元々の松代17000石を弟の信重に与え、自身は25000石の大名となりました。

 

信政には信就(のぶなり)、信守、信武、信福という子がいました。

しかし、信守は信武を殺害して自刃、信福は早世、そして信就は詳細不明の事情によって相続対象から外されてしまいました。

 

1656年(明暦2年)、父が隠居したことで松代藩を相続することとなりましたが、信政は1658年(明暦4年)に信之よりも先に亡くなります。

 

死の直前、彼は生まれたばかりの右衛門に相続を指名しますが、これに甥の信利が怒り、松代藩は一時相続問題で揉めることとなりました。

しかし、信政の遺言と未だ存命の信之が幕府に働きかけたことで右衛門の相続が決定、右衛門は幸道と名を改めて藩主として1727年(享保12年)まで松代に生き続けました。

 

一方、廃嫡された信就も後に旗本として分家相続が承認され、幸道は彼の子である信弘を養子として松代藩を相続させました。

信就と幸道はとても仲が良かったとされています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?信吉、信政はいずれも藩主として寿命を全うする前に病死してしまっていたんですね。

真田はどうも後継者に恵まれなかったという印象があります。

 

しかし、それでも真田家はあちこちで枝葉を起こし、うまく徳川の世を生き抜いています。

大名家の中には、江戸時代以降すっかり衰えてしまった家もありますがそこはしぶとい真田家ですね。

 

 

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2 Responses to “真田信之の子供、真田信吉と信政はどんな人物だったのか?”

  1. 北斗琉拳 より:

    (真田丸より考察)
    稲の愛を失った信政は生涯愛に彷徨する事となる…忠勝の血を受けた孫がこんな悲しい役だったなんて…(同情)
    信政(史実)「全然違うぞー!」

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