真田大助(幸昌)の大坂の陣での最期の様子と秀頼との逃亡説!

戦国時代に終わりを告げる大坂の陣。

主要な戦国大名がほとんど徳川方に付いたため、豊臣軍では若手の活躍が注目されました。

 

真田信繁(幸村)の息子・真田大助も終わりかけた戦国の世の中で最後のチャンスで世に出た人物と言えるでしょう。

いつの時代も若武者には世間の期待が集まりますが、大助もまた後世の脚色の中で世間にその名を知られる存在となりました。

 

今回は、もしかしたら次代のエースをなれたかもしれない、惜しまれる傑物・真田大助について迫ってみましょう。

 

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真田大助は信繁と誰の子供でいつ頃生まれた?

大助が生まれたのは信繁・昌幸が九度山に配流された後の事、生年は諸説あり不明ですが大坂の陣で出陣できる年になっていたことから、関ケ原から遅くても3年以内であろうと考えられます。

各資料でもそのような趣旨の記述で記されており、少なくとも10歳未満ということはなかったようです。

 

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彼の母は大谷吉継の娘・竹林院。

真田丸で言えば春がお母さんということですね。

 

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竹林院はとても優秀な女性で、生活苦であった幽閉生活の家計を助けるために真田紐を考案し村人に販売したとの逸話が残されています。

 

幽閉生活ということもあり、九度山では金銭的にも苦しい生活を送っていた大助や信繁。

この不遇の時代を支え続けた春(竹林院)の姿は大助の人格形成にも大きな影響を与えたのではないかと思います。

 

真田大助は大坂の陣ではどのような立場にいたのか?

豊臣家が徳川家に宣戦布告をされると、信繁は浪人募集を受けて九度山から脱出し、大助もこれに従います。

この時、大助は祖父・昌幸の名をもらい「幸昌」と名乗っていました。

 

信繁は浪人衆の大将として部隊を指揮する立場にありましたが、初陣の大助には当然そのようなことはできません。

そのため、大助は信繁の側でひたすら父のサポートをし続ける立場であったと思われます。

 

講談では大助も信繁とともに大活躍をしたとされていますが、実際に戦場で敵を討ち取るという事はあっても、大活躍というほどではなかったのではないかと思います。

 

夏の陣の道明寺の戦いでは信繁は家康をあと一歩まで追い詰めましたが、結局家康を討ち果たすことはできませんでした。

この時、大助も多くの敵兵を打ち取る活躍をしていましたが、信繁は大助に対して「秀頼様を側でお守りしろ」と伝え、大坂城に引き返させたと言われています。

(一節には秀頼を出陣させるという使命があったとも言われています。)

 

この時、死を覚悟した信繁にとって、秀頼の事を託せるのは実の息子である大助しかいなかったのかもしれません。

 

やがて大阪城天守閣が炎上すると、秀頼達は山里曲輪の蔵に逃げ込みます。

大野治長たちは秀頼の助命を願い出ますが、家康や秀忠はこれを許すことはありませんでした。

 

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徳川軍に取り囲まれた山里曲輪で最期の時を迎える秀頼と淀殿。

 

同じ場にいた大助に対して豊臣の家臣は、『大助は豊臣に旧縁があるわけでもないので逃げるように』と促しますが、「私は真田信繁の息子、最後に豊臣を裏切るわけにはいきません」と言い、秀頼たちと共に自害したと伝わります。

 

後世、忠義の臣として美談となっている真田大助はこうして生まれました。

 

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豊臣秀頼と薩摩に落ち延びたという説の真偽

大坂の陣の有名な伝説として、秀頼・淀殿・そして信繁・大助は実は生きており薩摩に落ち延びたとする説があります。

というのは、最終的に山里曲輪は収納されていた爆薬に引火されたことで爆発を起こし、死体検分をしたところ誰が誰だかさっぱりわからないという状態でした。

 

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」

 

当時、世間は信豊臣、反徳川の世相が強くこのような童謡が京で流行しました。

これによれば、秀頼は影武者を立てて密かに逃亡し、淀殿や信繁、大助、そして息子の国松までもを連れて薩摩まで密航したとされています。

 

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そこで秀頼は親類の木下延俊を頼って出家し、45歳まで生きたとされています。

国松もまた延俊の実子・延由(延次)として交代寄合となったとする説まであります。

 

では、肝心の大助がどうなったかというと全く話に出てきません。

まあ徳川に正面切って対抗した信繁の子孫が徳川の歴史の表舞台に現れるのも難しい話だとは思いますが、信之のいた松代藩でも上記の童謡が流行っていたことから、豊臣に対する追慕の念はとても深いものだったのでしょう。

 

この手の話は源義経や楠木正成、織田信長にもありますが、大助が生きていたとしても幕府の中に彼の活躍の場はなかったでしょう。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

生存説も含め、大助もまたなかなかうまくいかない世の中の悲哀を自ら引き受けたヒーローとして語り継がれることとなりました。

 

しかし、外の世界に出て間もなく命を絶たざるを得なくなったのは戦国時代の悲しい話です。

大坂の陣では本当に多くの惜しまれる命が失われました。

 

彼らは押しなべて豊臣から徳川へと時代が移る中で生きる場所を失い、最後の光明を求めたような気がします。

戦が長引けば家康が亡くなり幕府の権威もなくなっていたかもしれません。

しかし、誰もが戦の時代を終わらせたかったのが真実であり、大助もその犠牲となってしまいました。

 

生きていれば必ず何かの役割を果たしていることとなるでしょう。

ですが、自分が果たして何の役割を果たすこととなるのかは死の瞬間までわからないのかもしれませんね。

 

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