名刺(木札)でおなじみ!夜討ちの大将・塙団右衛門の豪快な逸話!

大河ドラマ『真田丸』もいよいよ大詰め、最終章・大坂の陣に突入します。

圧倒的な数を誇る幕府軍に対し信繁がいかなる活躍を見せてくれるか楽しみですね。

 

信繁と共に戦う大坂五人衆のキャストも明らかになり、塙団右衛門(ばんだんえもん)を演じるのは舞台を中心に活躍されている小手伸也(こてしんや)さんに決定しました。

 

塙団右衛門と言えば、大坂城の浪人衆の中でも知名度が高い人物の1人。

派手な活躍が目立つ浪人衆の中でも、名前が覚えやすいことがその一因でしょうか?

 

大坂城浪人衆は信繁以外にも数多くの「戦国武将」達が最期の死に花を散らしていきましたが、団右衛門もその1人です。

今回は、一際武勇でなる塙団右衛門について、大坂の陣が始まる前に予習をしましょう!

 

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塙団右衛門の経歴、大坂の陣まで

塙団右衛門という名は彼の武勇を面白おかしく綴った後世の講談によって知られた名前で、確かな史実上の名では、『塙直之(ばんなおゆき)』と言います。

塙団右衛門と塙直之、同じ漢字を使っていますがまるで印象が違いますね。

 

若かりし日の直之については出自や経歴が諸説あり定かではありません。

尾張国の塙直政(なおまさ)が織田信長に仕えていたことから、直之はその縁者で若い頃は信長に仕えていたが酒癖が悪く殺人を犯してしまったために追放されてしまったとする説。

 

菩薩の化身を自称した「地黄八幡(じきはちまん)」で知られる相模小田原の北条綱成(つなしげ)に仕えていたとする説等がありますが、いずれにせよ信長から秀吉へと時代が移り変わっている頃の直之はあまり確かな身分ではなかったようです。

 

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この頃の直之の諸国流浪を面白おかしく書いたのが後世の講談の元となったようですが、同じく大坂城浪人衆となるヒヒ退治で有名な薄田兼相(すすきだかねすけ)も同じ頃に主を失って諸国を流浪したと言われており、その頃の話がおなじく講談となっています。

 

彼らが奇しくも同じ時期に腕一本で諸国を流浪したとする講談の話には、一体どんな意図が隠されているのでしょうか?

 

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さて、そんな中、次の食い扶持に困った直之に仕官の話が飛び込みます。

 

相手は秀吉恩顧の加藤嘉明で優秀な頭脳を持つ男でした。

彼は直之の武勇を買っており、直之を側に仕えさせていました。

 

直之は小姓として嘉明の側にいましたが、旗手としてこの立派な旗を背負った状態で戦い戦功を挙げました。

この功で直之は350石の知行を手に入れることとなります。

 

直之の生年は不明ですが、伝承通りにいけば30歳前後の再スタート。

武勇一本の彼にしてはまずまずの結果でしょうか?

 

秀吉が亡くなるまでの間はどうにか平穏に暮らしていたようですが、関ヶ原の戦いの際に命令違反で嘉明の批判を買った挙句自ら加藤家を出奔してしまいます。

 

直之はその後、小早川秀秋に仕えますが彼は間もなく死去し小早川家は断絶。

 

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再び浪人となった後は家康の四男・松平忠吉に仕えますが彼もまた1607年に関ケ原での傷がもとで若くして死去。

彼の所領は弟の義直に受け継がれますが、直之は義直には仕えずまたも浪人します。

 

次に仕えたのは秀吉恩顧の広島藩主・福島正則ですが、とある理由でまたも福島家を出奔せざるを得なくなりました。

この詳細については後述しますが、福島家を去った後は仕官を諦めて京の妙心寺にて仏門に入り、名を「鉄牛」と改めました。

 

それから間もなく、江戸幕府が豊臣家に対して最後通告を突きつけ大坂冬の陣が勃発。

直之はこの知らせを聞くと、狙いすましたかのように還俗し、僅かな供回りを連れて大坂城へと入ったのです。

 

夜討ちの大将と呼ばれる理由は?

大坂城に入った直之は、大野治房(はるふさ)の指揮下に入ります。

彼は真田信繁や長曾我部盛親とは違い大名ではなかったことから軍議に参加できるような身分ではなかたため、直之は大野治房の指揮下で大坂城の西側を守ることとなりました。

 

しかし、いざ開戦となっても直之の活躍の場はなかなか現れません。

ようやく彼の活躍の場が現れたのは、真田丸での防衛戦によって徳川・豊臣双方に和議の話が持ち上がろうとした頃でした。

 

直之の上司・大野治房は豊臣家の家老・大野治長(はるなが)の弟でした。

和議はそもそも治長によって建議されたものでしたが、治房は徹底抗戦派でした。

 

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和議の交渉が始まった頃、直之は治房に「敵陣に奇襲をかけたい」と話を持ちかけました。

治房は当然これを承諾し、自らも出陣して攻撃を仕掛けました。

 

奇襲先は蜂須賀至鎮(はちすがよししげ)の陣。

蜂須賀家は元来豊臣恩顧の大名であるため、至鎮は諸将から疑いの目を向けられていることをとても気にしていました。

そのため、開戦と同時に至鎮は豊臣軍の砦を次々と陥落させ幕府軍随一の活躍をしていました。

 

実は今回の直之の奇襲も至鎮は読んでいましたが、奇襲部隊の方が一枚上手であり、奇襲は成功し直之隊は蜂須賀軍の中村右近ら150人を討ち取る活躍をしました。

 

この際、直之は本町橋の上に床几(しょうぎ)を置いてそこに座ったまま動かず、士卒に下知を飛ばして「夜討ちの大将 塙団右衛門」と書かれた木札をばらまかせたと言われています。

 

直之はかつて嘉明に「お前には将たる才能がない」と言われたことに報いるため、敢えて「大将」として自ら前線に出ないまま行動をしたのだと考えられます。

 

夜討ちに見る当時の武士の価値観

講談等では、直之のような武勇の将は単騎で華々しく敵を討つ姿が頻繁に描かれています。

戦国武将で有名な一騎打ちを言えば、川中島の戦いの上杉謙信・武田信玄、または鬼児島弥太郎(小島貞興)・山県昌景(当時は飯富昌景)の一騎打ちが有名でしょうか?

 

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しかし、一騎打ちは少なくとも大坂の陣より50年以上も前の川中島の時点で廃れています。

日本史の授業で、鎌倉時代の元寇の際に武将達が一騎で名乗り出たところを次々に討ち取られたという話を聞いたことはありませんか?

 

当時は戦国時代以上に儀礼を重んじる風習で、国内の戦ではこうした儀礼を当たり前のように行っていましたが、戦国時代までにはそうしたある意味不合理な儀礼は戦では行われなくなっています。

 

この時代、すでに武勇一本では武士として認められない世の中になっていたのです。

嘉明の叱責は直之にとって、武士として失格だと言われたようなものでした。

 

和議が成立すると、直之は大坂城の今福口に二尺(60cm)余りの木に「塙団右衛門」と書いて立てました。

実は先の直之の活躍を聞いて嘉明が直之を殺そうとしているとの噂が流れていたため、直之は「こうして目立つようにしていれば射手だって俺がどこにいるかわかるに違いない」と堂々としていたと伝わります。

 

夏の陣では部将の1人に任じられ、治房の指揮下に入って浅野長晟(あさのながあきら)隊と樫井(和泉国、現在の大阪府南西)にて交戦します。

しかし、そこで仲の悪かった岡部大学と一番槍を競っているうちに突出してしまい、本隊との連携がとれないままに苦戦を強いられ、そのまま戦死しました。

 

塙団右衛門はどんな性格だったのか?

家康と三成、秀吉の後釜を狙った天下取りが始まると、直之の主君・嘉明は三成と仲が悪かったことから東軍に付きます。

直之も当然これに従って関ヶ原の戦いに参戦していました。

 

直之はこの時に鉄砲隊を任されており敵の陽動を命じられていましたが、作戦が変わり直之は一時撤退するように命令されました。

ですが彼はその命令を無視して独断で足軽を出陣させてしまいます。

これを知った嘉明は直之に激怒。

 

「お前は勇んでばかりで兵の道理を理解していない。大将の器ではないお前のような奴を派遣したのが間違いだった。」、要するに、刀を振り回すしか能のない猪め!という意味で直之をコケにしたような言葉でした。

 

直之はこの言葉で嘉明の器を見限ったようで、漢文を綴って床に貼りつけました。

その内容は下記のようなものでした。

 

「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」

遂に江南の野水に留まらず、高く飛ぶ天地の一閑鴎

 

【意味】江南のような辺鄙な河川の下には留まる気はない。カモメは今天地の果てへと高く飛び立つのだ。

【もっと詳しい意味】加藤嘉明は我が生涯の主君にあらず、俺は今仕えるべき主君を探しに旅立たせてもらう。

 

嘉明は当然直之の仕打ちに怒り、「奉公構(ほうこうかまい)」を諸国の大名に触れ回ります。

奉公構とは、自分の所を出奔した人物を他の大名に仕えさせないよう念押しする公的書類です。

こうして嘉明も直之に対して反撃を行います。

 

直之は小早川秀秋→松平忠吉と仕えた後に、秀吉恩顧の広島藩主・福島正則に仕えます。

 

しかし、「広島藩に塙直之がいる」。

 

その知らせを聞いた嘉明は正則に対し、「あんたの所にいる塙直之は奉公構を出しているはずだ。勝手に仕えさせては困る、即刻クビにしてほしい」と直談判します。

 

当初は奉公構を無視していた正則でしたが、嘉明に直訴されてしまっては言い訳できません。

こうして、直之は馬廻衆1000石の知行をふいにせざるを得ず、福島家を去ってしまいます。

 

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このタイミングで大名への仕官を諦めてしまった直之は、改心して京の妙心寺で仏門に入り、名を「鉄牛」と改めます。

しかし、この時も帯刀したままであったために周囲からは「あいつは本当に出家する気があるのか?」と批判を浴びてしまいます。

それから間もなく大坂の陣が勃発すると、彼はすぐに還俗して大阪へと向かいます。

 

当時、徳川が豊臣を滅ぼそうとしていたことは恐らくそこらの娘でも知っているような情勢だったでしょう。

直之は或いは身の安全のためにわざと仏門に入り機会を伺っていたのでしょうか?

 

とかく破天荒な行動が目立つ直之ですが、彼の大坂の陣までの遍歴を見ると彼はどうも大名=経営者というタイプで生きていけるような人間ではなかったようです。

 

当時の武辺者は著者が察するに今でいうところのプロ野球選手のようなもので、名プレイヤーであればその実素行が悪かろうが少々のことは目を瞑ってもらえる身分だったのではないでしょうか?

しかし、一歩武芸の世界を出てしまえばそれ以外に何も技能がない場合あっという間に食いっぱぐれてしまう。そんな職人の世界に直之らは身を置いていたのでしょうか?

 

直之は豊臣家に仕えようとした際、「徳川が勝っても俺の行く末などたかが知れている。しかし、豊臣が勝ったら俺は大将となれるかもしれない」と考えたと伝えられています。

大坂の陣は、武辺者の世が終わろうとしていた時にやってきた最後のチャンスだったのです。

 

しかし、彼らの希望はむなしく打ち砕かれ徳川家によって治世が開かれることとなるのです。

 

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

大坂城浪人衆は聞くも驚く武辺者や元大名の英傑が揃っていました。

しかし、彼らはいずれも時代の移行期に取り残された「武士」であり、その生き様を新時代を生きる「大名」に見せつけて散っていきました。

 

直之が雪辱のために行った夜討ちは、主君・嘉明に対する汚名返上と同時に、さほど恵まれないまま時代の終わりを迎えてしまった武士の意地を見せたかったようにも見えます。

 

同じような気持ちは、きっと他の浪人衆、そして15年もの間不遇をかこっていた信繁にもあったに違いありません。長い雌伏の時を経て、ついに立ち上がった彼らの戦いを、我々は見逃してはいけません!

 

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〈文〉いちたか風郎

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