野心家の伊達政宗が徳川家光から絶大な信頼を受けていた理由!

奥羽の大名・伊達政宗はよく信長・秀吉・家康と同世代であれば天下を狙えるほどの器であったと称されています。

 

その評判に違わず、政宗は奥羽統一の若き日から江戸幕府の世となった晩年まで天下を取るという意識を崩すことはありませんでした。

大坂の陣の際に、支倉常長をヨーロッパに派遣してスペインのフェリペ三世の艦隊を派遣しようとしたのは有名ですね?

 

そして、遅れてきた英雄である伊達政宗を強く慕っていたのが、家康の孫・徳川家光です。

 

政宗は戦国時代から江戸時代を生き抜いた生き残り。

一方家光は太平の世に生まれた天運のプリンスです。

 

家光は政宗をはじめ、立花宗茂等の戦国大名の生き残りをとても強く慕っていました。

政宗もそんな家光には平伏しており、徳川家康亡き後も家光に対して反旗を翻すことはありませんでした。

 

今回は、戦国の世から少し離れて徳川治世下での知っているようで知らない大名と将軍の交流についてお話ししましょう。

 

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豊臣秀吉・徳川家康に楯突いた伊達政宗

奥州伊達氏は元々東北の大名でしたが、政宗の曾祖父・稙宗(たねむね)の時代に政略結婚を繰り返してその勢力を一時は北陸にまで広げるほどになりました。

 

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しかし、内乱に次ぐ内乱で政宗が家督を継いだ頃の奥州は中央とは違い未だ群雄割拠の様相でした。

それをどうにか統一まで持ち込んだ政宗でしたが、その時既に一大勢力を築いていた豊臣秀吉に臣従せざるを得なくなります。

 

秀吉は迂闊に従おうとしない政宗の領地を取り上げ、伊達を骨抜きにしてしまいます。

実際、北条滅亡後も政宗は一揆を扇動して未だ反骨の意志を示しています。

 

関連記事→北条氏政は凡将なのか?名将氏康を父に持つ男の評価と最期!!

 

時は流れて家康の時代になっても、政宗は奥羽百万石の夢を捨てずに家康に対して強気な態度で臨みます。

しかし、家康も容易には食えない傑物で関ヶ原で上杉を必死に足止めした政宗との約束を難癖をつけて反故にしてしまいます。

 

さらに、幕府が成立してからは城の修理などの普請(要するに公共事業)を幾度となく押し付けられています。

これは伊達のみならず、島津などの遠方の外様大名の力を経済帝に削ぐために行った命令ですが、これによって伊達の徳川への不信感は余計に強くなっていきます。

 

冒頭でもお話しした、大阪の陣の際に支倉常長をスペインに派遣したのもこの時期で、政宗はこの時もなお反旗を翻す意志を持ち続けていました。

 

しかし、政宗は豊臣が滅ぶと一転して内政に専念し軍事行動を一気に控えるようになりました。

家康も最期の時には政宗に秀忠や後事を託したことはドラマなんかでも有名な話です。

 

そうして政宗が領国の繁栄を進めている頃、家光が3代将軍となりました。

 

政宗と家光の絶妙な掛け合い

家光が将軍になるまでの経緯は『大奥』や春日局について調べると詳しいので割愛しますが、家光か忠長かと将軍選定に悩んでいた幕府に政宗も意見をしていました。

 

政宗は長幼の序を崩さずに家光が将軍となるべきだと主張していました。

実際に家光が将軍になる時は父に代わって政宗がその後見人となっていました。

 

政宗は秀忠よりも年上のため、その権威は当時の治世においては戦国大名の生き残りとして将軍を凌ぐものがありました。

秀忠も政宗には畏敬の念を抱いており、政宗は秀忠に対し事あるごとに将軍とはどうあるべきかと説いていました。

 

家光が将軍宣下を受けた際に発した「余は生まれながらの将軍である」という言葉は余りにも有名です。

 

この場には遠方からはるばる大名が訪れていましたが、政宗も当然この場にいました。

家光は続けて「大名は今後余に臣下の礼を取るべきだ。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の準備を始めよ。」と言います。

 

政宗はこの言葉に「政宗をはじめ、誰も異論は持ちますまい。」と言っていち早く平伏します。

これには諸大名も有無を言わさず平伏するしかありませんでした。

 

家康、秀忠、家光の時代はまだまだ徳川も盤石とは言えず、例えば政宗もいつだって反乱を起こせる状態ではありました。

秀忠、家光がロクでもない人物だったら或いは戦国時代の再来もあったかもしれません。

 

政宗の存在は、将軍にとっては目の上のタンコブで尚且つ監視役でした。

家光は祖父家康を崇拝していたことで有名ですが、祖父が認めた政宗もまた尊敬の対象でした。

 

家光は二条城へ参内する際に徳川将軍家も許されなかった紫の馬の総を政宗に与えていました。

また、自分が経験したことのない戦についてしょっちゅう政宗に聞いていました。

 

摺上原の戦いについて聞いたときは、勝者の政宗は雄弁であったのに対し、敗者の佐竹義宜は終始黙っているしかなかったと言います。

 

家光は病弱で気弱だった反面、案外気性が荒く好き嫌いの激しい一面があったともいわれています。

そうみると、家光は勝ち誇る政宗のような人物に強いあこがれを抱いていたのだとも考えられます。

 

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家光・政宗の共通点

家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んでいました。

ある意味で実父・秀忠よりも慕っていたでしょう。

 

これは推測でしかありませんが、2人には様々な共通点があります。

 

政宗は料理が趣味で家康と同じく健康志向の固まりでした(その割には喫煙者だったというのは目を瞑ってください)。

政宗が隻眼となった原因は幼少期に罹った天然痘ですが、政宗はきっとこの出来事がきっかけで健康に目覚めたのでしょう。

 

家光も幼少期から病弱で、家康自ら処方した薬によってようやく事なきを得たという逸話があります。

その影響で、健康志向に興味があった可能性は高いと思われます。

 

大奥ができたきっかけ、それは家光の男色趣味にありました。

 

当時の男性の嗜みとはいえ、1人も世継ぎが生まれないことを考えると危険な事態です。

春日局は家光の女性感覚を見て大奥を設立しました。

 

さらに、家光は母親との関係あまり良くなかったのですが、実は政宗も幼少期は弟・小次郎と後継者争いを起こしています。

 

政宗の母・義姫も正宗ではなく弟を支持する立場にあった訳です。

 

もしかすると、男色の背景には母親への不信感があったのかもしれません。

そのせいか、政宗もまた片倉小十郎景綱と男色の仲であったと言われています。

 

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ここまで豪快な性格の政宗も、実は幼少期は非常に内向的で父・輝宗も頭を悩ませるような少年でした。

しかし、輝宗は息子に対しては非常に子煩悩で、死の瞬間まで政宗を一人前にしようとしていました。

そのおかげで、政宗は戦国末期を代表する英雄にまで成長できたのです。

 

家光はそういう意味では、父からの愛情には恵まれていなかったのかもしれません。

政宗はまさに「父」だったのです。

 

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政宗の最後と家光の失意

そんな政宗にも最期の時が訪れます。

 

1634年頃から体調不良を訴えていた政宗。

この時家光は、医者を彼の為だけに呼び江戸中の寺社に快復平癒の祈祷を行わせています。

 

さらに、1636年に参勤交代で江戸に来た際には絶食状態が続いていた政宗ですが、家光は自ら藩邸に足を運び、政宗を見舞っています。

 

この時、政宗は既に杖をついていて、何度も休みながらでないと動けない状態だったといいます。

 

それからしばらくして、政宗は70歳でこの世を去りました。

 

参勤交代から僅か1ヶ月の事でした。

死の報せを聞いた家光は、秀忠が死んだ時よりも落胆したと言われ、江戸で7日、京で3日間、殺生や遊興を禁止しました。

 

家光はその後、15年の治世を築いて亡くなります。

 

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

戦国大名と言っても、その人生は戦だけで終わるものではありません。

時代と言うのはあくまで学習するうえで1つのゲージとなるものに過ぎず、時代に関係なく生きている者の人生は続きます。

 

政宗は豊臣家が滅んだ後も太平の世で生き続け、後進を導き続けたのです。

その遺志は確実に家光に受け継がれたことでしょう。

 

政宗は自分が天下を取ることは叶いませんでした。

 

しかし、秀忠・家光を通じて日本問う国を築いていった意志は確実に天下を覆いつくしたことでしょう。

 

政宗の天下は、いやどんな形であれ敗者もまた天下を制する上で大きな布石を築いているに違いありません。

 

勝者だけが進みゆく世の中であれば、これほど繁栄した世が今日に築かれたことはないでしょう。

 

大河ドラマ『真田丸』も、敗者がいかに後世に生きざまを伝えたかを知る物語です。

その結末もさることながら、皆さんも広い目で戦国時代を見ると、新たな発見があるかもしれませんよ?

 

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<文・いちたか風郎>

 

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