玉木文之進の壮絶な最期!!介錯を務めた意外な人物!!

吉田松陰、乃木希介を教育し、立派な人物へと育て上げた玉木文之進。

 

これまでにも玉木文之進の性格やスパルタ教育について触れてきました。

 

今回は玉木文之進の最期の様子についてです。

 

その最期は武士としてけじめをつけるための壮絶なものでした。

 

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松下村塾発祥の地

玉木文之進は、松陰の父である杉百合之助の末弟であり、松陰から見て叔父にあたります。

 

学問優秀であったため、近所の子供たちを集めて学問塾を開いていました。

 

その学問塾の名前は「松下村塾」と言います。

 

この「松下村塾」は、のちに久保五郎左衛門、そして松陰へと引き継がれていきます。

 

「玉木文之進旧宅」は現在、当時の面影を残したまま保存されていて、この場所が松下村塾発祥の地となっています。

 

スパルタ教育で松陰を導く

幼少期の松陰は文之進に学んでいました。

 

文之進は、非常に厳格で実直な性格であり、塾での指導は大変厳しいものでした。

 

関連記事⇒松下村塾の元祖玉木文之進のスパルタ教育に耐えた吉田松陰!!

 

それは、まだ幼かった松陰も例外ではありませんでした。

 

勉学中は一切気が抜けません。

 

なぜなら、書物の開き方が雑であったり、本を読む時の姿勢が崩れていたりすると、文之進は松陰を容赦なく張り倒すのでした。

 

ある時、勉学中の松陰は、頬(ほほ)に虫が止まり我慢できずに掻いてしまいました。

 

それを見た文之進は怒り、松陰を殴り飛ばしたと言います。

 

現代なら体罰とされてもしょうがないくらいの仕打ちですが、文之進は態度を改めることはありませんでした。

 

また松陰も、文之進の仕打ちから逃げ出すこともなく、師事し続けるのでした。

 

しかし文之進は、なぜこのような態度で松陰に接したのでしょうか?

 

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文之進の理念 侍は滅私奉公であれ

文之進が松陰に語ったとされる言葉があります。

 

「侍は作るものだ。生まれるものではない」。

 

私利私欲を捨て、公儀に尽くすことが侍の務めである。

 

教育とはそれを身につけさせること。

 

これこそが文之進の理念でした。

 

そして松陰に、その理念でもって徹底的に鍛え上げます。

 

勉学中に虫に刺され頬を掻いてしまうことは、勉学(=公儀に役立つ人間になるためにするもの)より自身の欲望(=頬が痒い)を優先したことになる。

 

すなわち、滅私奉公に反する行為であると文之進は見なしたのです。

 

そうした文之進の指導は、松陰の根幹を作っていくことになります。

 

成人した松陰は、外国へ密航を企てたり、幕府を糾弾したりして投獄、処刑されてしまいます。

 

しかしそれらは、日本を外国からの脅威から守りたい、その為には自身の命も惜しまないといった、究極の滅私奉公の表れではないでしょうか。

 

文之進の教えを松陰はずっと守り続けたのでした。

 

松下村塾と萩の乱

吉田松陰亡きあとの松下村塾は、明治維新後、創始者である玉木文之進によって、再開されます。

 

ちなみに、明治期を代表する軍人で日露戦争の英雄となる乃木希典も玉木文之進に学んでいた時期があるので、松陰とは同じ師に学んだ兄弟弟子という事になります。

 

この文之進が松下村塾を主宰していた時期に、松陰時代の松下村塾で学び、高杉晋作らと活動を共にしていた前原一誠が、新政府で徴兵制を支持する山県有朋と対峙し、参議を辞職して地元萩に戻っきます。

 

当時は廃刀令や武士の秩禄処分(給料の打ち切り)などが行われ、明治政府に不満を持つ不平士族は日本全国に存在していました。

 

それは萩も例外ではなく、その拠点になっていたのが「松下村塾」でした。

 

そこに明治政府の方針を否定した前原一誠が戻ってくとなると、不平士族が前原に武士の窮状を訴えるのは当然の流れです。

 

後輩たちの訴えを聞いた前原一誠は、熊本での神風連の乱の勃発に呼応して挙兵し、萩の乱を起こします。

 

反乱に参加した200名の中には、前原や正誼を始めとした「松下村塾」の生徒が多数含まれていました。

 

関連記事⇒前原一誠の最期と萩の乱が玉木文之進に与えた波紋!!

 

 介錯は松陰の妹千代(お芳)

自分の主宰する塾から反乱の徒を出してしまった。

 

このことに責任を感じた文之進は、自身の一命をもってけじめをつけることを選択し、自宅から坂を登ったところにある墓所に向かいます。

 

ここは玉木家代々の墓所となっている場所で、吉田松陰の遺髪が葬られているお墓がある場所でもあります。

 

そして、反乱の徒を自分の門下生から出してしまった事を先祖の墓前で詫び、文之進は切腹して果てます。

 

その時、介錯をしたのは松陰の妹の千代(お芳)でした。

(千代は花燃ゆには登場していません。)

 

関連記事⇒明治になって文の姉・千代が語った兄・吉田松陰の逸話!!

 

千代は後年、その時の様子を斉藤鹿三郎という松陰研究家に語っています。

 

この日、叔父は私をよび、自分は申し訳ないから先祖の墓前で切腹する、ついては介錯をたのむと申されました。

私もかねて叔父の気性を知っていますから、おとめもせず、お約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。

私はちょうど四十でありました。

わらじをはき、すそを端折って後にまわり、介錯をしました。

そのときは気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。

介錯をしたあとは、夢のようでありました。

※司馬遼太郎著「世に棲む日々」より引用。

 

反乱に弟子たちが加担したこと、つまり自身の教育への責任を強く感じた文之進のけじめでした。

 

お芳も回想する通り、文之進らしい最期ですね。

 

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