細川忠興の歪んだ性格と妻・細川ガラシャの最期の様子!!

歴史を知ることの魅力、それは単なる戦の勝ち負けの結果だけでなく政治の仕組みや経済の成り立ち、そして当時の人々の人間味や苦悩・葛藤を知ることにあります。

 

彼らの人間性を垣間見ることができる一番の側面は結婚生活ではないでしょうか?

 

そういえば、現代でも有名人のプライベートは話題として定番のジャンルになっていますよね?

 

戦国大名の中にも、大名である夫よりも妻の方が知名度が高い人物はいました。

 

それが、キリシタンの悲劇で有名な細川忠興(ただおき)・玉(ガラシャ)夫妻です。

 

2人はいずれも名門に生まれ結ばれるべくして結ばれましたが、その過程と顛末は涙なしでは語れません。

 

ガラシャの最期はよくご存じの人も多いでしょうが、夫・忠興は彼女に対してどのように接していたのでしょうか?

 

今回は、細川忠興・玉(ガラシャ)夫妻の有名なエピソードと、オフィシャルな場ではなかなか現れない忠興の家庭人としてのエピソードを紹介していきたいと思います。

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細川忠興の性格

まずは戦国大名である夫・忠興から見ていきましょう。

 

細川忠興は1563年(永禄6年)生まれです。

 

細川氏は元々室町将軍足利氏に連なる家系で、忠興が生まれた時も父・藤孝は室町幕府に仕え15代将軍・義昭の擁立に尽力しました。

 

しかし、やがて義昭と彼の庇護者であった織田信長が対立すると、細川家は信長に仕えるようになりました。

 

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若い頃の忠興は信長の嫡男・信忠に仕えていました。

 

初陣を迎えたのは15歳の時、紀州の雑賀討伐の時でした。

 

この時に忠興は大戦果を挙げましたが、それを聞いた信長が当時としては大変珍しく右筆(ゆうひつ、手紙などの代行者)に任せず自ら筆を執って忠興に対し感謝状を送りました。

 

忠興はこの感謝状をずっと宝物としていたそうです。

 

信長が本能寺の変で亡くなり、天下が秀吉、家康と続いていく中で忠興はその時々を巧みに生きて細川家の血筋を後世に伝えていきました。

 

しかし、それでも一番慕っていたのは信長1人で、忠興は信長からもらった感謝状を生涯宝としていました。

 

そして江戸時代、忠興が赴任した小倉には信長の戒名から名前をとった『泰巌寺(たいがんじ)』という寺が建てらて、そこで忠興は信長の33回忌を執り行いました。

 

このように、忠興は生涯に渡って信長を慕い続けていたのです。

 

忠興は大変な戦上手で、紀州の雑賀討伐を初め、秀吉時代は賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵と主だった戦いには全て参加し、活躍を続けていました。

 

そのためか、彼は武具への興味も深かったのです。

 

武具に関する逸話として、忠興がある家臣に兜をプレゼントした時、別の人間がその兜の飾りの角が木製だったため「戦で折れるんじゃないの?」と言ったら「折れたと言う事はそれだけ活躍したということじゃないか!」と激怒したと伝わります。

 

彼には彼なりのこだわりがあったみたいですね。

 

数々の勇ましい逸話が伝わる忠興ですが、決して武しか能がなかったわけではなく、千利休の弟子として利休十哲の1人に忠興も名を連ねています。

 

千利休といえば秀吉から切腹を命じられて最期を迎えますが、忠興は切腹を命じられた後の利休を危険を顧みずに見舞いに訪れています。

 

この他にも、自分と同じように元幕臣でありながら路頭に迷っていた者に対して自分が士官の手ほどきをしたことも伝わっています。

 

以上の事から、忠興は恩義を感じた相手にはとても寛容で義理堅い性格だったようです。

 

それに知的教養人のような側面もあったため、何でもできる人として各地で重用されたのもうなずけるでしょう。

 

関連記事⇒千利休が切腹となった原因!!秀吉が激怒した理由とは?

 

ここまで見ると、忠興は完全無欠の強力な人物だったかのような印象を持ちますが・・・・・。

 

とにかく短気

しかし、頭も切れて戦も出来る彼の人格は、時として周囲に非道とも評価されるほどの二面性を持っていたようです。

 

『茶道四祖伝書』という書物には、忠興の性格は天下一気が短い人物と評されています。

 

兜の話でもそうですが、彼は自分の中のこだわりがとても強く、それに反することをされると怒り狂っていました。

 

忠興は直接戦の武勇に優れていましたが、裏方の情報戦も彼の得意技でした。

 

本能寺の変が起こってすぐの頃の一色氏討伐で、忠興は情報工作を駆使して一色氏を皆殺しにし、残党も1人も余さず族滅したといいます。

 

当時、一色氏には忠興の妹が一色義定に嫁いでいましたが、一色氏滅亡の際に実家に帰されていました。

 

彼女は忠興の一色氏に対する仕打ちを見て忠興をとても恨み、自ら忠興を斬り殺そうとまでしました。

 

しかし失敗に終わり、忠興はこれで鼻に一文字の傷をつくることとなりました。

 

この他にも、忠興は度々一族と諍いを起こしています。

 

関ヶ原の戦いで、三成憎しで東軍に付き家康に付き従っていました。

 

一方、父・藤孝は既に隠居して幽斎(ゆうさい)と名を改めていましたが、この時は忠興の弟・幸隆らと共に僅かな兵を率いて丹波田辺城にて西軍の軍勢相手に籠城していました。

 

しかし、この時の幽斎は2カ月は堪えたものの多勢に無勢で落城寸前となりました。

 

最終的には天下一の教養人だった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇(ごようせいてんのう)が東西両軍に勅命によって講和を指示したことから幽斎の師だけは免れましたが、結局田辺城は西軍に明け渡すこととなりました。

 

忠興はこれを聞いて、西軍に屈した幽斎に対して怒り一時不仲であったと伝わります。

 

また、忠興はすぐ下の弟である興元(おきもと)とも不仲でした。

 

さらに言うと、忠興は関ヶ原の戦後処置を巡って息子達とも対立しました。

 

長男・忠隆は前田利家の娘・千世を妻としていましたが、関ヶ原の戦いの頃には西軍に人質として尾坂屋敷にいました。

 

しかし、後述するガラシャ自害の際に共に自害せずその場から逃亡して西軍に匿われていました。

 

忠興は妻を失った悲しみからこれを強く咎め、忠隆に離縁を命じましたが忠隆は前田家や千世を庇う行動を繰り返し、ついには廃嫡までされてしまうのです。

 

そうなると、次に世継ぎとなるのは次男・興秋(おきあき)のはずでしたが、忠興は三男・忠利を任命しました。

 

これに不満を持った興秋は忠興の元を離れて隠居していた祖父・幽斎や同じく出奔させられていた兄や叔父と暮らしていました。

 

興秋は後に大阪の陣で豊臣軍に付いたことから、戦後忠興に自害を命じられました。

 

家康が止めたにも関わらずです。

 

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黒田長政との喧嘩

他に有名な話として、黒田長政と不仲であったことが知られています。

 

その原因はまたも関ヶ原の戦いにありました。

 

長政と忠興は関ヶ原本戦での活躍で、黒田藩は筑前52万石、細川藩は豊前38万石にそれぞれ加増・転封されました。

 

関ヶ原以前に忠興が赴任する予定だった豊前藩の藩主は黒田長政でした。

 

しかし、長政は移動する際に豊前藩の年貢を徴収してから筑前に移動してしまいました。

 

これによって、忠興は当面の収入を失ってしまいました。

 

当時、国替えの際の暗黙の了解として新国主が経済的に困窮しないように旧国主が財政を圧迫しないことが前提条件でした。

 

長政はそれを犯すというルール違反をしたのです。

 

忠興は当然、長政に相当怒り家康に長政の行為を直訴しました。

 

しかし、家康は「今は忙しいから君達が好きに採決しなさい。」と忠興の上訴を事実上無視したのです。

 

余計に怒った忠興は水軍を派遣し、あわや黒田藩と開戦という段階まで事が大きくなりました。

 

そこで家康はあわてて榊原康政に講和を結ばせ長政に年貢の返済を強制させたことで全面戦争だけは避けられました。

 

黒田藩では長政の強引な政策のおかげで年貢が高くなってしまったことから、農民や藩士が細川藩へ逃亡するという事件が起きていました。

 

上記の事件から黒田藩と細川藩はとても不仲で、忠興は『細川家の武士である以上は他家の武士にも礼儀正しく接しなければならない。

 

しかし、卑怯者の黒田だけは別だ。

 

もし黒田藩の者と親しくする者があればそれこそ厳しく処罰する。』という命令を出すほど黒田藩を嫌っていました。

 

このように、忠興は優秀でありながらとても短気ですぐに事を重大に構えようとするとこもあったようです。

 

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玉(ガラシャ)とは?

さて、お次は玉(ガラシャ)についてお話ししましょう。

 

玉の本名は明智玉、忠興と同じ1563年(永禄)に、かの有名な明智光秀とその正妻・照子(ひろこ)との間に生まれました。

 

幼少期の彼女については特に逸話が伝わっていませんが、忠興との結婚はお互いが15際の時、1579年(天正7年)の時に信長の計らいによって行われました。

 

2人の間には間もなく長男・忠隆が生まれ、忠興も信長の下で順調に戦功を重ねていたことからこのまま行けばある意味安泰の道を歩んでいました。

 

しかし、本能寺の変によって信長が死ぬと玉は「謀反人・明智光秀の娘」として細川家でも扱いに困る存在となってしまい、丹後の味土野(みどの)に幽閉されてしまいます。

 

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光秀は政権掌握の為に細川氏や筒井氏に応援を要請しましたが、筒井氏は無視を決め込み忠興も太恩ある信長を殺した光秀に与するつもりはなく、秀吉に全面的に協力しました。

 

玉を幽閉したのはその意志を秀吉に表すためです。

 

かくして、光秀は山崎の戦いで敗れてその天下はあっさりと終わりました。

 

この時以来、忠興は秀吉に従うこととなりますが、玉は相変わらず外出もろくにできないまま幽閉され続けていました。

 

彼女はそれまでは舅の幽斎と同じく禅宗を信仰していたようですが、幽閉生活が長引く中で忠興が友人の高山右近からカトリックキリスト教の話をすると、だんだんその教えを聞くようになったようです。

 

忠興が九州征伐で城を空けると、玉は夫の前では素知らぬ風を装っていましたが、とうとうキリスト教の教えを直に受けたくて密かに屋敷を抜け出し、教会へと向かいました。

 

この時に玉に教えを説いた宣教師・高井コスメは「今まで見てきた日本人の中で、彼女ほど利発で聡明な女性は見たことがない。」と評しています。

 

玉はその場で洗礼を受けたい、つまりキリスト教に帰依したいと懇願しましたが、コスメは玉が身分や氏素性を明かさなかったこと、外見や周囲の人間から察するに高い身分の人であることからその場で洗礼を与えることは断りました。

 

その日、玉の帰りが遅いことを咎めた忠興は玉の幽閉をさらに強化してしまい、二度と外出ができなくなってしまいました。

 

すっかりキリスト教に心を奪われた玉は簡単には諦めることができず、宣教師達が九州に行ってしまう直前に、事前に洗礼を受けていた侍女の清原マリアから洗礼を受けてついにキリスト教に帰依しました。

 

この時の洗礼名が「ガラシャ」、細川ガラシャの誕生です。

 

忠興と玉の関係や逸話

九州征伐が終わり、ガラシャの幽閉がいよいよ解かれる時が来ました。

 

早速、忠興の元に帰ったガラシャですが、忠興はこの時に5人の側室を持つようになっていました。

 

ガラシャとの間には既に何人も子がいましたが、ガラシャにとってはこれがかなりのショックだったようで、宣教師に「夫と離婚したい」と相談していました。

 

しかし、キリスト教では離婚や自害を禁止されていたのでそれはダメだと言われ、宣教師から「困難に負けず強い心を持ちなさい。そうすことで徳は磨かれる」と説得されたことで思いとどまりました。

 

ガラシャは明智の娘と言う事もあって以前はとても鼻持ちならない性格だったようですが、キリスト教という心の拠り所が見つかると性格も穏やかに変わっていったようです。

 

彼女の中では、期待に花を咲かせていた新婚生活が突然裏切られたショックが大半を占める中で救いの種が見つかったのでしょう。

 

しかし、時は秀吉によるバテレン追放令で宣教師達は次々と国外退去、信者は磔となり教会は次々に破壊されていきました。

 

そんな中、忠興はガラシャとその近臣がキリスト教に帰依していることを知りました。

 

それまでそんな大それたことをずっと秘密にされていた忠興は当然激怒して教えを捨てるように命令しました。

 

しかし、彼女達はそれを当然承諾するわけがありません。

 

忠興はそれに対し、侍女の鼻や耳を削いで脅しをかけたという有名な逸話があります。

 

この他にも、忠興はガラシャの事となると殊更に終着しているような話が数多く伝わります。

 

忠興・ガラシャは戦国の世でも当代随一の美男美女とされていましたが、彼女の美しさは外の人間にも非常に有名で、ガラシャの美しさに見とれた細川家の植木職人を忠興が自ら手打ちにしたとの話もあります。

 

朝鮮出兵の頃になると、ガラシャの方は忠興に愛想を尽かしていた可能性の指摘されていますが、忠興の方はそれでもガラシャへの愛情を捨てることはありませんでした。

 

その証拠に、忠興はガラシャ宛に朝鮮から何通も文を送っていますが、その内容は「お前は美しすぎるから秀吉には誘惑されないようにしてほしい」というものです。

 

大の女好きである秀吉に対して忠興が警戒していた気持ちはよくわかりますが、ストレートすぎるんじゃないですかね?忠興さん(笑)。

 

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玉(ガラシャ)の最期の様子

秀吉が亡くなり、情勢が家康対その他の五大老という方向に動いていくと、忠興は加藤清正や福島正則と共に反三成派として行動を始めました。

 

三成はこの時の状況を「恩ある豊臣家を裏切り、混乱を呼び込んで俺を殺そうとしたのは細川忠興に始まる!」と断じています。

 

織田信長を心底慕っていた忠興。

 

もしかすると、秀吉のことを尊敬する信長の天下を横取りした卑怯者だと思っていたのかもしれません。

 

家康が上杉征伐の為に進軍すると忠興もそれに従いました。

 

しかし、ガラシャを初め東軍に付いた大名の奥方達は大坂の屋敷にそのまま残されていました。

 

家康が着々と布石を打っていく中、蟄居していた三成が大谷吉継や宇喜多秀家らと共に挙兵しました。

 

三成は外は毛利輝元ら有力者と手を結びながら、内では東軍に付いたりどちらに付くか逡巡している大名達を西軍に引き込む為に家族を人質に取る作戦を取り始めました。

 

この作戦で、薩摩の島津義弘は家康に付きたいという本音を曲げて三成に付かざるを得なくなっています。

 

さて、三成も憎き忠興が愛する妻・ガラシャを秘蔵にしていたことはよく知っていたようで、ガラシャにも兵を差し向けようと考えていました。

 

夫に対する愛情はさておき、ガラシャも大名の正妻である以上、家のことを考えて行動しなくてはなりません。

 

忠興が東軍で頑張っている以上、ガラシャもおいそれと西軍に身を委ねることなどできません。

 

忠興もガラシャに「もし自分の尊厳に関わることがあったら、近臣と共に自害するように。」と命じていました。

 

そこでガラシャは宣教師にある相談をしていました。

 

「もし自分の身を辱められることがあったら、自害は出来るのでしょうか?」

 

その問いに、宣教師は「イエス様に帰依した身として、自害は大変な重罪です。絶対にしてはいけません。」と教えに従ってNOサインを出しました。

 

しかし、時は無常で三成は細川屋敷に向けて兵を進発させました。

 

ガラシャの覚悟は既に決まっていました。

 

侍女や近臣に屋敷から逃亡することを命じ、自分と小笠原少斎のみを残し屋敷を空にしました。

 

そして小斎に「今すぐ私の胸をその薙刀で突きなさい。」と命じ、ロザリオを手にキリストの元へ旅立ちました。

 

享年38歳でした。

 

小斎もまたガラシャの遺体が西軍の目に触れてはならない、と思い屋敷に火を放ち自らも爆発の中に身を投じました。

 

三成はガラシャの死によって人質作戦が憎悪の対象となっていることを恐れ、止む無く作戦を変更せざるを得ませんでした。

 

この顛末を現地で関ヶ原へ向かう道中で知った忠興は、烈火のごとく怒り関ヶ原では三成本体と激しい戦いを繰り広げました。

 

戦後、領地替えとなった豊前で忠興はガラシャの一周忌を行いました。

 

それはガラシャが生前愛したキリスト教のしきたりに従ったもので、忠興は側室を持ちながらも二度と正妻を持つことはありませんでした。

 

そして、自分の領内ではキリスト教に布教を密かに認め、その保護に努めました。

 

晩年の忠興は、若い頃とは打って変わって穏やかな性格となり後進には「細川家の人間であならば誰に対しても礼儀を尽くさなければならない。」と訓戒しています。

 

亡くなったのは、ガラシャの死から45年も後の事、享年83歳でした。

 

あとがき

忠興はとても感情の浮き沈みが激しかった分敵も多かったようですが、そんな中で玉(ガラシャ)は唯一といっていい心休まる要素だったのでしょうね。

 

その方向のずれた愛情はガラシャからしたらちょっと迷惑だったのかもしれません。

 

ただ、忠興のガラシャへの愛情は本物で、結果として忠興はガラシャに対し配慮してやれなかったことをとても後悔していたのではないかと思います。

 

彼の愛の証拠として、忠興の墓はガラシャの墓の隣に建てられてあります。

 

今の世の中でも、仕事で成功を収める反面で家庭では不和を抱えている人は少なくないでしょう。

 

そんな時に、家族を失って後悔することのないように、我々も気を付けたいところですね。

 

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