宇喜多秀家が五大老に選ばれた理由と八丈島での生活!!

豊臣政権下で絶大な権力を握った五大老。

 

関ヶ原の戦いでは彼らの動きがとても重要な役割を果たしていました。

 

その中で、五大老の筆頭・徳川家康に真っ向から立ち向かったのが備前の宇喜多秀家です。

 

彼は五大老の中でもダントツの若さでしたが、家康はその力をとても恐れて最終的に宇喜多氏を八丈島へ追いやり大名・宇喜多氏を完全に無力化してしまうのです。

 

宇喜多秀家が豊臣家にもたらしたものとは何だったのか?

 

また、ほかの五大老と比べても明らかに格が違う彼が秀吉に重宝された理由は何なのか?

 

今回は、豊臣政権の若き重鎮・宇喜多秀家の生涯について迫ってみましょう。

 

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宇喜多秀家とは?

宇喜多秀家は、1572年に備前の大名・宇喜多直家の次男として生まれました。

 

幼名は八郎。

 

宇喜多氏は元々小さな家でしたが、直家の時代に下剋上によって親戚や主君をどんどん葬り勢力を拡大させていきます。

 

直家は毛利に付いた後に織田に付くこととなりましたが、間もなく悪性の腫瘍で亡くなってしまいました。

 

八郎が跡を継いだのはまだ満10歳の時でしたが、信長は自分に味方した宇喜多氏を手厚く保護し秀家の本領を安堵させました。

 

宇喜多氏は羽柴秀吉が率いる毛利討伐軍に参入することとなります。

 

本能寺の変の後、羽柴と毛利が和睦すると毛利の監視役としての役目を宇喜多が担うこととなり重用されるようになります。

 

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やがて八郎は正式に元服し、秀吉の猶子となったことで「秀」の字をもらって「秀家」と名乗るようになりました。

 

Ukita_Hideie

 

1585年には秀吉の養女である豪姫(前田利家の娘)を正室としたため、本来は外様ではありますが秀吉からは親族として扱われるようになります。

 

それからの秀家は小牧長久手の戦いを皮切りに秀吉の天下統一にかかる主だった戦に尽く参戦し、確固たる地位を築くようになりました。

 

朝鮮出兵にも文禄の役の際には大将、慶長の役の時にも監軍として参戦していました。

 

こうして、秀家は豊臣氏の亜流としてその政権の中枢を担うこととなるのです。

 

秀家が五大老になった理由は母の美貌?

慶長の役から一時帰国した際、秀家は秀吉から五大老に任じられました。

 

先に見た彼の功績を見ると、豊臣恩顧にして仮にも親族としての秀家の地位を考えると十分にあり得る大命でした。

 

しかし、秀家の五大老就任には母の存在が大きく貢献していたとする説もあります。

 

秀家の母・円融院(えんゆういん)は、宇喜多直家が惚れこみ、円融院を見るなりすぐに彼女を妻にしたと言われるほどの絶世の美女。

 

その美貌は直家の領地内でも知れ渡っていたとされます。

 

2人の間に生まれたのが秀家でしたが、秀家が誕生してしばらくすると直家が亡くなってしまいます。

 

そこで生き残りのために円融院が近づいたのが当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった羽柴秀吉です。

 

Toyotomi_hideyoshi

 

大の女好きである秀吉が絶世の美女を放っておくはずもなく、円融院の美貌にメロメロになる秀吉。

 

この時に円融院の口利きがあって、子供である秀家を重用していくようになったとも言われています。

 

秀家が若くして大出世をしているところをみると、秀吉がかなり目をかけていたことは間違いありません。

 

これはもちろん、秀家自身の聡明さを秀吉が気に入ったという部分もあると思いますが、母親の力も影響していたと考えると、歴史は女性が動かしてきたという言葉もうなづけるような気がします。

 

最も、著者自身はこうしたゴシップじみた話は常に真偽を疑っていますが・・・・・(汗)

 

秀吉の恩に報いるための関ヶ原での奮戦!!

事情が何であれ、秀吉が秀家を重用していたのは事実です。

 

秀吉が亡くなると、世は再び騒乱の兆しが見え始めました。

 

特に、加藤清正福島正則らの武断派と石田三成・小西行長らの文治派の対立は秀吉子飼いの家臣達の不和を露骨に表しています。

 

それに乗じて豊臣家の政治を独占しようとしたのが徳川家康です。

 

家康は彼らの争いに乗じて三成を失脚させると、自分に仇なす会津の上杉景勝を討伐するために軍を率いて進軍を開始しました。

 

この隙に乗じて、三成は毛利輝元を大将として反徳川軍を結成します。

 

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この軍の中に秀家の姿もあり、西軍では副大将という立場で、関ヶ原の本戦では西軍の中心勢力として重きを置いていました。

 

五大老のうち、家康は大敵、前田利家の跡を継いだ利長は家康に付き、輝元は機能していない、そして上杉景勝は遥か遠くにいて連携が取れない。

 

西軍は元々中核が文治派やそれほど大きくない大名なので、そんな状況において秀家の勢力は頼みの綱でした。

 

秀家は手始めに総大将として徳川の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を陥落させる活躍を魅せました。

 

その後は三成の本隊と合流し、関ヶ原の本戦を迎えます。

 

本戦では秀家が西軍の第一陣となり、一番の多勢である兵17000人を率いていました。

 

宇喜多対福島の先鋒同士の対決は関ヶ原の中でも一番の激戦だったと伝わり、双方が一進一退を繰り返したと言われています。

 

秀家の戦ぶりは素晴らしく、勇猛でなる福島隊も容易には打ち破れなかったと伝わります。

 

しかし、しばらくして松尾山に陣取っていた小早川秀秋が突如東軍に寝返り、それに続いて朽木元綱・赤座直保・脇坂安治・小川祐忠の4隊が同じく西軍の大谷吉継に攻めかかります。

 

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吉継は秀秋がかねてから家康と繋がっていたことを感づいていましたが、その他の部隊に関しては想定外だったようでこれに完全に打ち破れらて自害しました。

 

秀家はこの時も未だに中央にて奮戦していましたが、裏切り部隊や徳川譜代らが一斉に攻めてきたことで流石に崩されてしまいました。

 

秀家は秀秋の裏切りを許すことができず秀秋と刺し違えようとしましたが、家臣に止められて何とか思いとどまり関ヶ原から脱走しました。

 

秀秋の裏切りが決定打となり、西軍は敗北し天下は家康の物となることが決定したのです。

 

八丈島での生活と福島正則の酒

秀家は関ヶ原の敗戦後、何とか戦場を離脱すると薩摩の島津義弘の庇護を受けていました。

 

しかし、江戸幕府が開かれた1603年、「島津が反逆者の宇喜多秀家を匿っている」との噂を聞きつけた幕府がそれを追求したため、時の当主・島津忠恒(ただつね)によって秀家は江戸に引き渡されてしまいました。

 

島津忠恒と前田利長の懇願によって死罪は免れましたが、秀家は久能山に配流の後八丈島への流罪が決まりました。

 

なお、八丈島へ流罪となった流人としては伝説を除けば秀家が公式第一号です。

 

この際に妻の豪姫とは離れ離れになりました。

 

八丈島での秀家は、旧臣や妻の実家である前田氏の援助を受けてかなり裕福な生活を送っていたそうです。

 

八丈島時代の逸話として、宿敵・福島正則が秀家に酒を届けたといういうものがあります。

 

ある時、江戸に滞在していた正則は酒がまずいということで広島から酒を取り寄せていました。

 

この時に酒を積んだ船が遭難し、八丈島に流れ着きます。

 

その福島家の船を見つけて声をかけてくるボロボロの服を着た男。

 

船員が彼の話を聞くと宇喜多秀家本人であることが分かりました。

 

秀家は、『おお、福島殿の家中の船か?八丈島に来てから本国の酒を飲んでいない。良かったら船に積んである酒を少しばかり分けてもらえないだろうか?』と申し出たといいます。

 

秀家の故郷は岡山で、正則の領地である広島とはお隣なので、秀家も故郷の酒を飲んでみたくなったのでしょうね。

 

この時、主人の大事な酒を家臣の一存で秀家に渡すことは非常にリスクの高い事でした。

 

気が短い正則の事なので、『関ヶ原で戦った敵に酒を渡すとは何事だ!!』と激怒する事も予想されます。

 

しかし、この家臣は独断で船に積んである酒の樽を秀家に渡し、本国へ帰りました。

 

そして、江戸にいる正則に事の次第を報告。

 

すると、正則は『お前が宇喜多殿に酒を進呈したことで、わしの面子も立った。良くやってくれた。』と言って、この家臣を加増しました。

 

Masanori_Fukushima

 

関ヶ原にて激戦を繰り広げた正則と秀家。

 

しかし、もっと昔を思い出せば、秀吉の下で共に戦い、朝鮮にも共に出兵した戦友です。

 

この逸話の信憑性は疑わしい部分もありますが、本当だとしたら短気で酒癖が悪く、あまり良いイメージの無い正則の中では貴重なエピソードとなりますね(笑)。

 

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宇喜多秀家は八丈島にて出家し「浮田久福」と名を改めて50年の長きに渡り平穏無事に過ごしました。

 

そして亡くなったのは1655年(明暦元年)、世は4代将軍・家綱の時代でした。

 

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まとめ

秀吉は鶴松、秀頼が生まれるまでの長きに渡り子供がいなかったので、一族待遇の若者は大変貴重な存在でした。

 

秀家もその1人で、秀吉は明を平定した暁には秀次、秀秋と並んで関白にしてやろうと言われていました。

 

秀家はどうも坊ちゃん暮らしで豪奢な生活を送っていたと言われていましたが、獅子奮迅の活躍をした姿を見る限りは決して凡愚な奴ではなく立派な後継者の1人であったと言えましょう。

 

現在、八丈島では宇喜多秀家の子孫が代々墓守をしています。

 

秀家の生きざまとその思いは、今も生き続けているのです。

 

私達が日頃憧れている歴史のヒーロー達の生活は、今も歴史の1ページとして刻まれています。

 

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