真田昌幸の高野山・九度山での困窮生活と最期の様子!!

1600年(慶長5年)9月15日の関ケ原の戦いは諸大名の予想を大きく裏切り、僅か半日で東軍の勝利が確定しました。

 

当初は家康に付くようなそぶりを見せた真田昌幸も結局は家康に付く理を見いだせずに西軍に与しました。

 

結果、関ヶ原の戦後処理によって昌幸と信繁は上田領没収と死罪を言い渡されました。

 

しかし、信幸とその舅・本多忠勝によってどうにか死罪だけは免れて高野山に配流、後に九度山に幽閉という処分を受けます。

 

今回は、九度山へ配流されてから無念の最期を迎えるまでの昌幸の生活と、昌幸、信繁と別れたその他の真田家との交流を見ていきましょう。

 

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九度山での困窮した生活

死罪こそ免れたものの、強制的に表舞台から降ろされた昌幸の心中は穏やかではありませんでした。

 

上田城を去る際、信幸への別れの挨拶に「ああ悔しいかな、本当なら内府(内大臣、家康のこと)こそをこのようにしてやろうと思ったのに!」と本音を吐露したと伝わります。

 

初めは高野山に配流された昌幸一行ですが、一説には女人禁制の高野山に信繁が止む無く妻を連れてきたことを理由に配流先を九度山に変更になったと伝わります。

 

九度山では昌幸、信繁はそれぞれが別で家を構えていたことを慮って屋敷を別々に造営され、それなりに気を遣われていたようです。

 

流罪人はブタ箱同然に誰もが一緒にぶち込まれるのが通例のようですが、そういう意味ではまだ幸運な方だったのでしょう。

 

九度山での生活費は、信幸や親交の深かった浅野幸長からの仕送りで賄っていました。

 

しかし、信繁の妻子や臣下を含めた16人、さらにそれに仕える者達を含めるともっと多い大所帯の生活を賄うため、生活はあっという間に困窮していきました。

 

その上、最大の心配事は信繁に数人の子供が生まれたことでした(この中に、大坂の陣で信繁と共に戦死する大助こと真田幸昌、伊達家臣となる片倉守信もいる。)

 

後に信繁が大坂城に入る際に九度山の土豪を多数従えていたことを考えると、この時期から積極的に恩赦をばらまいていた可能性も考えられます。

 

流罪人の割には何だかいい生活をしているようで、要するに必要経費も含めて想像以上に金を使うことが多かった結果が彼らの困窮を招いたのだと考えられます。

 

しかし、決して贅沢な暮らしをしていたわけではなく、やはり元から困窮していたことには変わりないのでしょう。

 

信幸への仕送りを催促する手紙

お金に困った昌幸は、信幸に対して仕送りの工面をするようにお願いする手紙を送りました。

 

「こちらは借金が多く困っている。残りの20両を一日も早く届けて欲しい。出来ないなら5枚でも10枚でもよいから」と、深刻な状況を信幸に吐露しています。

 

それに一応流罪人であることから、昌幸らは関ケ原以降その他の大名や家族にも会うことができませんでした。

 

信繁が信幸に送った手紙の中には「こっちの様子は相変わらずだが、冬は特に寒くて我慢できたものではない。どうか一度会いに来てほしい。」と金の無さもさることながら、人との交流が絶えて久しい現状に辛さを感じていることを明かしています。

 

伝説ではこの時期に軍略を練ったり、真田紐を編んで家臣に行商させることで情報収取をしたというのが有名ですが、これらはいわゆる俗説に過ぎず実際は一刻も早く赦免されたいと思い、昌幸が家康に向けて「もう我慢できないから早くここから出して!」との手紙を出しています。

 

しかし、その願いが聞き入れられることはありませんでした。

 

折しも二代将軍になったのはかつて自分が打ち負かした秀忠です。

 

秀忠も昌幸の下山を許したような形跡は一切なく、結局九度山から出られないうちに昌幸は見る見るうちに衰弱していきました。

 

昌幸の最期の様子

最晩年、昌幸は信幸の平癒祝いに手紙を送りました。

 

その中には「現在自分も病んではいるが、信幸が無事完治したようでよかった。」と自分もまた病に罹っているということを明かしています。

 

大名として自分の才覚を存分に発揮していた頃とは打って変わってだいぶ緩いにしても監視をつけられ、外との交流も禁止されてしまった現在ではさしたる刺激もなくただただ平然と世を過ごすという状況でした。

 

現代でも仕事を辞めた後にモーレツタイプのサラリーマンだった人ほど目標を失って痴呆に罹りやすくなるという話をよく聞きますが、決して道楽なタイプではなかった昌幸には変化のない生活が一番堪えたようです。

 

家臣が昌幸を慕ってわざわざ上田から九度山に来るということも多々ありましたが、それでは彼は満足しませんでした。

 

1611年(慶長16年)、昌幸は九度山にて病没します。

 

享年は65歳とも67歳とも言われています。

 

一説には、同じく10年以上も蟄居していた信繁も自堕落な生活を送って九度山を抜け出す頃には、髪は抜け落ち歯も抜けて浮浪者のような外見だったとも伝わります。

 

幽閉生活とは何もできないゆえにそれだけ与えるダメージが大きいのでしょう。

 

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まとめ

歴史の中には家康のように数々の犠牲を払って勝利を手にした者もいれば、昌幸のようにかつての栄光はどこへやらで空しく死んでいった者もいます。

 

信繁はひどい死に方をした父の姿を見たからこそ、大坂の陣で出陣できることが決まった時はそれはそれは嬉しかったことでしょう。

 

孫の幸昌や守信からすれば、九度山から出た時に初めて外の世界に出たことになるでしょうか?

 

少し話がずれますが、当時の民達は交通手段もなければ無闇に敵領地に出入りすることも出来なかった暮らしをしていたのです。

 

それを考えると、普段平然と県外や海外に出て暮らせる現代社会はとても恵まれた社会なのかもしれませんね。

(文・いちたか風郎)

 

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