真田幸村(信繁)の子供・阿梅と大八を保護した片倉小十郎重長とは?

真田信繁が大坂の陣で討ち死にした時、彼にはまだ何人かの子供がいました。

 

そのうち、長男の真田幸昌(いわゆる真田大助)は信繁と共に討ち死にしましたが、その弟である大八と阿梅、それに大坂の陣から2か月後に生まれる幸信(三好幸信)らは戦乱を脱出しています。

 

そして、大八と阿梅は奥州伊達家の家臣・片倉重長によって保護され伊達家で余生を送っています。

 

片倉重長といえば、伊達政宗の重臣片倉小十郎景綱の長男。

 

大坂の陣では本来信繁とは敵同士であった伊達家ですが、信繁とはいったいどういう交流があったのでしょうか?

 

今回は、片倉重長という人間と、真田と片倉の長く続いた交流について見ていきましょう。

 

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片倉小十郎重長という人間

片倉小十郎重長は、1584年(天正12年)に片倉景綱の長男として誕生しました。

 

1591年(天正19年)に元服して初め片倉重綱(しげつな)と名乗りました。

 

それからは1599年(慶長4年)に秀吉が亡くなるまでの間、京・伏見に滞在しており、秀吉からは羽織を賜りました。

 

関ケ原の戦いの際には上杉軍の白石城を攻める伊達軍においては亘理城(わたりじょう)で留守を命じられていましたが、命令を無視して父と共に初陣を飾りました。

 

大坂の陣では父・景綱が病のために出陣することができなかったため、重綱が代理として政宗に従い大坂に赴きました。

 

冬の陣が終わると政宗は家康から大坂城の外堀を埋める工事の責任者に任命されていましたが、その現場におそらくは重綱もいたことでしょう。

 

夏の陣では伊達軍が先鋒として豊臣軍の後藤又兵衛率いる先鋒と対峙しましたが、この時に又兵衛に重傷を負わせる活躍をしたのが重綱です。

 

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重綱はこの時の戦で自ら先陣をきり刀を振るって応戦したと伝わります。

 

奥州へ帰還後、これを聞いた景綱が「自ら刀を振るうなんて大将にあるまじきことだ!」と激怒しましたが、世間では重綱を知勇兼備の勇将であると絶賛しました。

 

ところで、重綱が阿梅と大八を保護したのは大坂の陣の時です。

 

これについては諸説あるので次の章で見ていきたいと思いますが、いずれにしても重綱が度量の広い人間であったことが分かります。

 

何せ、真田信繁は家康に死さえも覚悟させたほどの大敵です。

 

幕府は真田信繁の子孫を見つけたら即刻殺せと全国に命令していたのですから、バレたら片倉家どころか伊達家にも追及が及ぶ恐れがあったのです。

 

大坂の陣が終わって間もなく、かねてから病に臥せっていた父・景綱が亡くなりました。

 

片倉家を継いだ重綱はそれからも政宗を献身的に支え続けました。

 

政宗が参勤交代の際に病をおして江戸に向かったときは、「今後の事はお前に全て任せる」と重綱に対して言い残していました。

 

それから間もなく、政宗は江戸の藩邸で亡くなりました。

 

重綱はその後、二代藩主・忠宗、三代藩主・綱宗に仕え続けました。

 

特に、忠宗からは同世代の重鎮として評定役の5人のうちの1人に任命されました。

 

重綱が重長と名乗るのは、晩年に三代将軍家光に嫡子の家綱が生まれたため、諱を避けたことから始まります。

 

1659年、重長は76歳の生涯を終えました。彼には子がなかったために片倉家は外孫である景長が後を継ぎました。

 

阿梅と小十郎の出会い

真田信繁の娘・阿梅は大坂の陣に際して信繁に従い大坂城に入りました。

 

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彼女には信濃で生まれたとする説と九度山で生まれたとする説がありますが、いずれにしても関ケ原の後は家族ともども九度山にいたと考えるべきでしょう。

 

阿梅と重長の出会いに関しては諸説ありますが、代表的な説は主に2つです。

 

1つ目は、大坂城が落城した際に現場では激しい略奪が行われていましたが、重長はそこで逃げ場を失った1人の女性をさらいます。

 

重長は最初彼女を侍女として召し抱えていましたが、後に彼女が真田信繁の娘だと知り結婚するまでに至ったという説です。

 

さすがに重長が阿梅や信繁と面識があったとは思えず、直接言われるまで女性の氏素性がわからなかったというのがこの説のネックでしょう。

 

2つ目は、落城に際し白い鉢巻と長刀を持った女性が重長の陣にやってきて、それが真田信繁の娘であると承知済みで迎え入れたという説です。

 

こちらに関しては、信繁が重長の武勇を間近で見たことで重長に感服し、落城が避けられないことを既に見抜いていた信繁がわざと阿梅を重長に託すという形をとった、としています。

 

だいたいの場合、信繁と重長の人間関係が強調される2つ目の説が用いられることが多いかと思います。

 

戦地での一瞬の邂逅というのがまた一層ドラマチックなのでしょう。

 

しかし、阿梅がどのような気持ちで片倉家に嫁いだのかまではここから読み取ることは難しいです。

 

反逆者の娘としてこれまで決して恵まれた暮らしをしてきたわけではない阿梅ですが、その心中たるやいかなるものだったのでしょうか?

 

お梅と大八を受け入れる

阿梅が大坂城から仙台に移住した時、重長には既に正妻がいました。

 

正妻は参勤交代の一環として江戸屋敷で人質として暮らしていましたが、1626年(寛永3年)に病死してしまいました。

 

重長は阿梅を正式に妻としたいと考えていたのですが、阿梅はあの真田信繁の娘です。

 

そこで重長は彼女が真田の娘であることを隠すために信繁の妹婿である滝川一績(かずあつ)の養女としたうえで片倉家に嫁がせたとの説があるのです。

 

先述の通り、幕府は真田信繁の一族に対して追及の手を緩めませんでした。

 

そこで真田信繁の娘と結婚することを隠すためにわざとこうしたポーズと取ったということです。

 

これに関しては、時代がずっと下って明治維新の時代になり維新三傑の1人・木戸孝允が芸者の出身とされる幾松を一旦長州藩士・岡部富太郎の養女としたうえで妻に迎えたという、身分の釣り合いや体面を保つという意味で同じような話が伝わります。

 

阿梅が重長に引き取られた際に、弟の大八も一緒に奥州に落ち延びていました。

 

大八は当時3歳、まだ右も左もわからない時に実家を失ってしまいました。

 

それから長い月日が流れた1640年(寛永17年)、大八は姉の縁で伊達家に改めて召し抱えられることとなり、彼は「真田守信」と名乗りました。

 

しかしこれによって伊達家は幕府からは逆賊の子を召し抱えてるのではないか?と疑われることとなりました。

 

伊達家ではこれを隠すために守信の事を「真田信尹の孫である。」と嘘をついて弁明しました。

 

すると、結局幕府としては守信の雇用に御咎め無しという結論を打ち出します。

 

それからの守信は「片倉守信」と名乗り、守信の家系は代々片倉を名乗って伊達家で活躍することとなるのです。

 

後に幕末になって子孫が真田に復姓し、以後この家は仙台真田氏として現在まで残ることとなります。

 

真田信繁の血が各地に散らばって現在まで生き残るにあたり、片倉重長は間接的とはいえとても大きな役割をしたこととなるのです。

 

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

片倉重長は直接的にはそれほど真田と関わった人間ではありません。

 

現在まで仙台真田氏が続くきっかけを作った人間となりました。

 

歴史の中では、一見大して大きな役割を果たしたとは言い難い人物が実は後になってとんでもない功績を残すことになる事がままあります。

 

重長は伊達家では勿論のこと、真田にとっても信繁の子孫を絶やさないために知らず知らずのうちに貢献していた事になります。

 

こうした巡り合わせが、歴史の本当の面白いところなのかもしれませんね。

 

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