金子重輔とは?その生涯と伝馬町から岩倉獄までの受難!!

幕末ファンさんの投稿記事第4弾は金子重輔。

海外への密航を企てる吉田松陰と共に、黒船に乗り込んだ人物です。

 

松陰を慕い行動を共にした金子重輔の生涯を幕末ファンさんの記事でご紹介します。

 

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松陰の最初の弟子

金子重輔は、吉田松陰の初めての弟子です。

年齢は、吉田松陰より1歳下でした。

 

もともと武士ではなく、長州藩の百姓である茂左衛門の子供で、茂左衛門が萩城下に出てきて染物屋を開業したとき、重輔は足軽である金子家の養子となりました。

育った環境のため、あまり学問はありませんでした。

しかし、なによりも行動を好み、脱藩して浪人となり江戸にでました。

そして、吉田松陰がロシアを目指すと聞くや、そのあとを追いかけ、松陰の弟子となりました。

 

宮部鼎蔵の忠告と密航

嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀に来航すると、翌年、松陰は密航を企て、金子重輔は松陰についていく決心を固めます。

 

松陰は、江戸出発の日を嘉永7年(1854年)3月5日と決め、この日、仲間を集めてこの計画を打ち明けました。

仲間のひとり、熊本の宮部鼎蔵は、「百に一つも成功しない。必ず獄門となる。狂ったのか」と猛反対しました。

さらに「自分の友人が、みすみす死ぬとわかった行動に踏み出すのを見て、それに賛成するはずがない」と宮部は譲りません。

 

しかし、松陰の決意は変わらず、翌日、吉田松陰と金子重輔は出発しました。

 

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二人は小舟を必死に漕いで、アメリカの旗艦ポーハタン号にたどりついて、なんとか乗り込み、アメリカへ連れて行ってほしいと談判しました。

しかし、ペリー提督の意向で断られ、福浦という地名の浜までアメリカ艦隊のボートで送り返されてしまいます。

 

密航失敗の代償

松陰は、自首を決断します。

浜辺でうろついて官吏に捕縛されるようでは、武士として見苦しいからという理由でした。

 

二人は浜辺から村に出て、庄屋らしい屋敷を見つけて名乗りました。

はじめ、庄屋は迷惑がって逆に逃がそうとしましたが、松陰は「罪は罪だ。男は罪を犯して逃げ隠れるようなことはしない」と言い、そして下田奉行所から同心二人がかけつけて、無抵抗の松陰と金子重輔は囚われの身となりました。

 

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松陰と金子重輔は、はじめ下田奉行所で取り調べを受けましたが、江戸へ護送され、北町奉行の取り調べを受け、伝馬町の牢へ入れられます。

そして、二人は身柄を長州藩へ移されることになり、長州へ向かいました。

 

江戸から長州へ二人を護送するとき、百姓身分の金子重輔に対する扱いは過酷でした。

もともと体が弱い金子は、護送の最中、下痢の症状がひどくなったのですが、排便するために檻から出ることは許されず、檻の中で便を垂れ流して着物は汚れたまま護送されました。

 

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長州へ着いてからは、松陰は野山獄、金子は百姓牢の岩倉獄へ収監されました。

金子重輔は、江戸の牢に入っているとき、皮膚病に罹患し、全身が膿んでしまい、さらに長州へ護送される道中、呼吸器を病んでしまい、岩倉獄に入獄してからほどなくして肺炎を併発して、ついに亡くなりました。

 

三日月の金子重輔の記事⇒吉田松陰の愛弟子として一緒に密航を企てた金子重輔の最期!!

 

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