山県有朋(狂介)の奇兵隊での出世と西郷隆盛との関係!!

幕末ファンさんからの投稿記事の第2弾は山県有朋を中心に高杉晋作や西郷隆盛とのエピソードをご紹介していきます。

 

山県有朋と併せて、高杉晋作のやんちゃな性格が窺えるエピソードです。

 

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山県有朋

山県有朋は、5人扶持の足軽の家の出身で、少年のころは役所の給仕のような仕事をしており、当時は山県狂介と名乗っていました。

 

山県は足軽身分のため、藩校明倫館に入ることができず、このため吉田松陰の松下村塾に入りました。

 

高杉晋作がのちに、奇兵隊を創設したとき、山県は「この身分制社会のなかで頭角をあらわすには、奇兵隊しかない」と思い、野心を内に秘めて入隊しました。

 

格別、革命思想を持っていたわけではありません。

 

最初は平隊士でしたが、自分の特技である宝蔵院流の槍術を他の隊士に教えるうち、しだいに奇兵隊内で重んぜられるようになり、いつのまにか「奇兵隊士の意見を代表する者は、山県狂介」と言われるまでになりました。

 

奇兵隊の主力幹部

高杉晋作など奇兵隊の幹部たちは、長州藩の政治や外交のために飛び回っており、常に奇兵隊を留守にしていました。

 

そして、幹部たちは「山県がいるから奇兵隊は大丈夫だろう」と考えていました。

 

山県は、そういった実務上の実力者的な地位を得るつもりで、仕事に精励し、いつしか奇兵隊の実権を握ってしまいました。

 

高杉晋作は、山県有朋のことを、はじめは実務馬鹿と思っていたようです。

 

高杉から見れば、山県という男は何をするにも慎重であり才気を感じさせませんでしたが、かわりに事務仕事を任せれば一級品でした。

 

萩にある山県有朋の銅像

 

山県有朋と高杉晋作

1863年、孝明天皇は徳川家茂を従えて、攘夷祈願のため賀茂行幸を行いました。

 

天皇の行幸は実に237年ぶりでした。

 

この模様を、高杉晋作と山県狂介は見物に出かけました。

 

孝明天皇と徳川家茂が通る賀茂河原にひざまずいていましたが、天皇が通りすぎ、将軍家茂が近付いてきました。

 

将軍家茂は、籠の中ではなく馬上の人でした。

 

将軍が、全身を大衆の前にさらけ出していたのです。

 

そのとき、人々はみな土下座して平伏していましたが、高杉晋作は顔をあげ、「いよう、征夷大将軍」と大向こうから声をかけるように叫びました。

 

隣にいた山県狂介は、さすがに顔色を失ったそうです。

 

もちろん、そんなことをすれば、捕えられて処刑されるかもしれなかったからです。

 

しかし幕府は、高杉晋作の非礼に対して何ら対応することなくやり過ごしました。

 

この行列は将軍が主体の行列ではなく、孝明天皇の行幸であり、将軍はそれに付き従う者にしぎなかったからです。

 

そして、高杉晋作は、それを計算したうえで、「いよう、征夷大将軍」と声をかけ、将軍の権威を失墜させたのでした。

 

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~三日月追記~

西郷隆盛

明治維新後、山県有朋は西郷隆盛の協力を得て徴兵制を実現します。

 

この徴兵制を実現するに当たって、薩摩出身者と山県の間に対立が起こるのですが、この時に山県を擁護し、見守り続けたのが西郷隆盛でした。

 

西郷は山県の事をとても買っていたようで、山県に不祥事が持ち上がった時も、山県をかばい続けています。

 

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明治政府で山県が出世できたのは西郷隆盛の力が大きいのですが、後にこの2人の運命は大きく食い違う事になります。

 

やがて西郷隆盛は新政府で木戸孝允や大久保利通と対立。

 

故郷である鹿児島に戻り、西南戦争を起こします。

 

この時、西南戦争の鎮圧に向かった新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋で、山県はかつての大先輩であり、恩人の西郷隆盛と刃を交える事になってしまいます。

 

西南戦争の終盤、城山に立て籠もる西郷隆盛に対して山県は1通の手紙を送っています。

 

あなたとこうして戦う事になるとは思っていなかった。

 

今回の戦があなたの本心でない事を有朋は知っています。

 

あなたの偉大さは充分に証明された。

 

これ以上無駄な血を流さないためにも、自ら命を絶つ決断をして下さい。

 

西郷隆盛の協力で導入された徴兵制。

 

その徴兵制によって召集された軍隊で大恩人である西郷を攻め滅ぼさなければいけない立場になった山県有朋。

 

山県はこの手紙をどのような思いで書いたのでしょうか?

 

山県有朋と伊藤博文

明治維新の三傑(木戸孝允・オ久保利通・西郷隆盛)亡き後、政府で絶大な権力を誇ったのが伊藤博文と山県有朋でした。

 

伊藤は4度も内閣総理大臣を務め、山県は2度の内閣総理大臣を経験しています。

 

この2人は長州藩の低い身分から総理大臣まで登りつめた人物として有名で、お互い仲も良かったそうです。

 

吉田松陰をはじめ、高杉晋作や桂小五郎の背中を見て育った長州の2大巨頭。

 

この2人が先輩達の跡を継いで明治という世を動かしていく事になります。

 

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