伊藤博文の評価と桂小五郎から受けた恩!!

今回の記事は『幕末ファン』さんからの投稿記事です。

 

とても興味深い内容の記事を5記事投稿していただいたので、5回に分けて順番にご紹介していきます。

 

まず最初は伊藤博文に関する逸話から。

 

桂小五郎や元5千円札の肖像だった新渡戸稲造とのやり取りが興味深いです。

 

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松陰の伊藤博文評

伊藤博文は、低い身分の出身でした。

 

彼の父親は、百姓でしたがのち流亡し、萩城下にきて足軽よりも身分の低い中間(ちゅうげん)の雇われ人となりました。

 

そのような卑しい家の出自でしたが、伊藤利助と名乗っていた16歳の頃、隣の家に住んでいた吉田稔麿に誘われて松下村塾に入門しました。

 

伊藤は、松下村塾に約1年在籍しており、ときどき吉田松陰の指示で、九州へ使いに行っています。

 

あるとき松陰は、伊藤のことを九州の同志に、「この生は、伊藤利助と称する者なり、小役人の末役なれど、かえって好んで吾が徒に従いて遊ぶ。才劣り、学幼きも」と紹介しています。

 

そして、こうも言っています。「質直にして華なし。僕、すこぶるこれを愛す」吉田松陰は、ほめ上手でしたが、伊藤博文に対しては、素朴で浮ついたところがない、という程度くらいしかほめようがなかったようです。

 

このころは、彼はあまり可愛気がなかったのかもしれません。

 

しかし松陰は、博文を見捨てていたわけではなく、久坂玄瑞が長州を離れて他所にいたとき、久坂宛へ「利助、また進む」とその心境を述べ、「なかなかの政治家になりそうだ」と書き添えています。

 

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恩人 桂小五郎

時が流れて、松下村塾の門下生が革命化してゆくにつれ、伊藤も志士となりましたが、彼の身分では「志士」とはいえませんでした。

 

しかし、他藩との交際上、「長州藩士」を名乗らねばなりません。

 

このとき、桂小五郎は伊藤のためにわざわざ長州藩に工作をし、自分の従士という形式にしました。

 

木戸孝允旧宅2

 

その際に桂は伊藤にこう言っています。

 

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「藩への届け出という意味では、私と君は主従ということになるが、それはあくまで形式で、君は私を同志と思ってもらいたい」

 

桂小五郎は、れっきとした長州藩士なので、伊藤とは身分が違うのですが、これが長州の文化だったのでしょう。

 

こうした階級概念の後退が、高杉晋作率いる奇兵隊を成立させ、これに付随して伊藤は力士隊を率い、そして、これらの巨大な躍動感が徳川幕府を倒すまでに至ったのだと考えられます。

 

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新渡戸稲造に語った吉田松陰

明治政府の元勲となった後年、新渡戸稲造から吉田松陰について質問されたとき、伊藤は次のように答えています。

 

「世の中では我が輩が吉田松陰の塾に長くおったようにして、松陰の弟子のように言っておる者もあるが、それは事実上間違いであって、我が輩はあまり松陰の世話にあまりなっていない。実際、当人に会ったこともたびたびはない」

 

伊藤博文は、もちろん松陰にしばしば会っているのですが、松陰という存在は、あまり興奮をもって語らねばならぬほどの師ではなかったようです。

 

伊藤博文旧宅1

伊藤利助旧宅

 

しかし、伊藤ほど、松下村塾から計り知れないほどの恩恵にあずかった人間はいません。

 

桂小五郎(木戸孝充)を除いては、松下村塾の門下生が長州藩を牛耳ることになり、明治政府が成立してからは政府の巨頭として国家に君臨することになったのです。

 

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