戦国最強と言われる本多忠勝と三国志の張飛の共通点!!

戦国最強と謳われ、大河ドラマ「真田丸」でも真田に立ち塞がる徳川の重臣として活躍が描かれている本多忠勝。

 

彼は14歳で初陣を飾って以来、生涯無傷という凄まじい逸話が残されているほどの武将です。

 

その活躍ぶりに、忠勝は織田信長から「今張飛」つまり「三国志の張飛のようだ」という褒め言葉を頂くことになりました。

 

張飛といえば、中国の『三国志』でお馴染みの蜀の劉備・関羽・張飛の三兄弟の末弟です。同じような話に、豊臣秀吉に与力として参陣していた竹中半兵衛重治は「今孔明」つまり「現代の諸葛亮」と例えられていました。

 

日本の『三国志』の受容の歴史はとても長く、少なくとも奈良時代には日本に伝わっていたと考えられています。

 

張飛といえば三国志でも屈指の猛将の1人として知られていますが、果たして信長が忠勝を張飛と例えたのには、どういう背景があったのでしょうか?

 

そして、2人の共通点とは一体何なのでしょうか?

 

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戦国最強と讃えられた本多忠勝

本多忠勝といえば、武辺者の三河武士の典型のような存在だというイメージが強いという方も多いでしょう。

 

実際、彼の武勇にまつわるストーリーには事欠きません。彼の初陣は14歳、かの有名な桶狭間の戦いの前哨戦である大高城での兵糧入れでした。

 

彼が初めて敵将の首を獲った時も同じ年でしたが、この時忠勝は叔父の忠真の軍にいました。

 

忠真はこの時初陣の忠勝を気遣って敵将の首を差し出し「これをお前の手柄としなさい。」と言いましたが、忠勝は「人の力を借りて武功を立てることが出来ましょうか。」と言って自ら敵陣に乗り込み首級を挙げました。

 

このように、彼は元から有言実行の人だったのです。

 

間もなく桶狭間の戦いで今川氏が没落を始めると、主君の家康が独立を画策し始めます。

 

忠勝は当然家康に付いて彼を助け続けます。姉川の戦いでは朝倉方の真柄直隆と一騎打ちを繰り広げました。

 

この時忠勝は徳川軍を包囲する朝倉軍に単騎で突撃しましたが、家康らはそれを応援するために必死で抵抗します。

 

これが姉川の戦いでの織田・徳川軍の逆転劇のきっかけとなるのです。信長から「今張飛」という言葉を頂いたのはこの時でした。

 

彼の武勇は続く一言坂の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦いにおいても敵味方を問わず称賛されました。

 

信長死後、秀吉との小牧長久手の戦いでは当初小牧山城の守備を命じられていましたが、徳川軍の危機に彼は僅か500騎で救援に駆けつけて形勢を逆転させました。

 

忠勝1人の活躍のために羽柴軍は進軍を躊躇しなければなりませんでした。

 

そして、関ケ原の戦いでは敵将の篭絡を行う傍らで本戦でも自ら敵を討ち取るなど、最後まで第一線で戦い続けました。

 

そんな彼でも、唯一負傷した機会がありました。晩年に小刀で自分の持ち物に名前を彫ろうとした際に手をうっかり滑らせて軽いけがをしてしまいました。

 

忠勝は「こんなけがをするなんて、本多忠勝も終わりだな。」といい、果たしてその数日後に彼は亡くなりました。

 

戦国最強の武将が、図らずも自分の手によって生涯を終えるような形になったのは何かの皮肉でしょうか?

 

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三国志でも一二を争う武勇を誇った張飛

そんな忠勝が例えられる張飛の具体的な武勇とは、どのようなものだったのでしょうか?

 

彼の性格はとても豪胆で、高潔な劉備、武勇の他に学問の素養もある義理固い関羽に比べると猪突猛進で単純な男というように描かれています。

 

ただし戦に出れば千人力で、彼は初陣の黄巾の乱で賊将の程遠志(ていえんし)、または鄧茂(とうも)をたったの一撃で討ち取り、それから10年あまり後の袁術との戦いでは猛将の紀霊(きれい)を一騎打ちで討ち取ります。

 

さらには曹操の親衛隊長である猛将の許褚(きょちょ)にも酒に酔っていながらも圧倒してしまうという鬼のような強さを披露してしまいます。

 

そして何といっても特筆すべきは、赤壁の戦いの前段階である長坂の戦いでの仁王立ちです。

 

張飛はこの時長坂橋に単騎で立ちはだかり、曹操軍の並みいる豪傑達に対して堂々と威圧しました。

 

それにひるまず突撃した将達は悉く張飛によって討ち取られ、劉備の逃亡を助けることに成功したのです。

 

三国志最強といえばご存知呂布ですが、張飛と呂布は行きがけ上何度も激しい打ち合いを行うこととなります。

 

小説『三国志演義』では呂布に渡り合える数少ない武将としての演出に、関羽と張飛が引き合いに出されています。

 

その他にも、張飛は劉備が蜀を攻め獲る際に同じく劉備に仕えることとなる馬超とどちらかが倒れるまで一騎打ちを行うというサバイバルバトルを演じきります。

 

この時、張飛と馬超よりも先に彼らを乗せた馬の方が先にバテてしまい、2人は何度も馬の交代を命じたとされています。

 

魏の曹操や呉の孫権も張飛の武勇には一目置いており、曹操に仕えた程昱は「劉備の傍に仕える恐ろしい人間は、関羽と張飛です。」とはっきり名指しで言っており、呉でも赤壁の戦いで有名な周瑜が「関羽と張飛がいるから劉備は油断ならない。」と漏らしています。
ところで、どうして信長が異国の歴史である『三国志』に詳しかったのでしょうか?

 

冒頭でもお伝えしたように、奈良時代には既に『三国志』は日本に伝わっていました。

 

日本に中国の文化を伝えたのは大陸から日本に亡命してきた渡来人達です。

 

中国の古典は教育のためにしばしば用いられていました。

 

『三国志』のような歴史書はその最たる例です。歴史書や『論語』『詩経』といった思想書は読み書きの基本から深い内容までを一貫して学ばれていました。

 

当時、教養といえば一般的に歴史や思想に関する知識を指していたのです。

 

余談ですが、現在日本に伝わっている司馬遷の『史記』は、あの直江兼続が子弟の教育に用いた版本がその元締めとなっていると言われています。

 

我々は今こうして歴史上の人物から様々な事を学びますが、彼らもまた歴史上の人物から生き方や戦略を学んでいたのです。

 

実は張飛にはこんな一面も

実はここまで挙げた張飛の武勇の実績は、全て小説『三国志演義』の創作です。

 

一般的に大名達が教養として読んでいたのは『三国志演義』の方でした。

 

正式な歴史書である正史(せいし)では、張飛の記述はとても簡素です。正史『三国志』によれば、彼は劉備と同じ河北省琢州の生まれ。

 

黄巾の乱から劉備に従いますが、次の記述は呂布を滅ぼした際に曹操を通じて皇帝から形ばかりの官位を授かった、ということまで時系列が飛びます。

 

長坂の戦いの仁王立ち自体は嘘ではありませんが、実際は仁王立ちをする前に橋を焼き落としており、曹操軍に対しては対岸から威嚇したとあります。

 

まあ、普通に考えればいくら張飛が猛将でも単騎で大軍を相手にするには少々厳しいでしょう。

 

小説ではこの後劉備三兄弟が赤壁で活躍しますが、実際の劉備は曹操と孫権が正面きって戦っているところを横から領土をかすめ取る漁夫の利を得ます。

 

残念ながら赤壁の戦いの、とりわけ劉備軍に関する華々しい逸話は創作の可能性が高いのです。
張飛は後半生ほど知的な一面を見せることになります。

 

劉備に従って蜀を攻めた時、敵将である厳顔(げんがん)を捕らえた張飛は忠義に殉じようとする厳顔の縄をほどき、その忠誠心に敬服しました。

 

厳顔はこれに感動して劉備に従うことを決めたのです。

 

このように、ただの猪武者ではなく軍の中核としてもはっきりとした能力を持っていた張飛。

 

しかし当時の中国は代々続く地方豪族がのさばる時代、張飛や劉備のような家柄も怪しい者達は、往々にして豪族達からは見下されていました。

 

正史の張飛での評価は「目上の者には頭を下げていたが、目下の者にはきつくあたることが多く人望を損なう結果となった」とあります。

 

この記述の通り、張飛は当時の世相も反映してか蜀の名士に対しては恭しく頭を下げざるを得ない状況にありました。

 

しかし、当時張飛に邸宅を訪問された劉巴(りゅうは)は、「あんな卑しい身分の奴と関わってはこちらの家の名折れだ。」といって相手にしませんでした。

 

彼の最期は、呉に殺された関羽の仇討ちの為に進軍の準備をしていた時に起こります。

 

かねてから部下に対して厳しい折檻を行い、劉備からも痛めつけた部下を傍に置いていることを懸念されていましたが、それが現実のものとなり出発直前に部下に暗殺されてしまいました。
『三国志演義』では、張飛の首が呉に渡ったことで呉が悪者のように描かれていますが、こればっかりは張飛の身から出た錆でしょう。

 

意外に腰の低いところがあった張飛ですが、やはり本質的には山賊あがりの癖のある人物だったようです。

 

信長ら戦国時代の人達は、彼の一面についてどこまで知っていたのでしょうか?

 

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張飛と忠勝、その共通点は?

さて、張飛と忠勝は何といってもその卓越した武勇が特徴です。

 

彼らの武勇は味方だけでなく敵にまでその名を知られるほどでした。

 

張飛が曹操や孫権から恐れられていたように、忠勝も若い頃から織田や武田にその武勇を称賛されていました。

 

信長が「今張飛」と例えたのは、単純にその武勇に惚れ込んだというのが一番でしょう。

 

『三国志演義』の特筆すべき点としては、劉備三兄弟の仁義と忠誠心に生きる姿が描かれていることです。

 

袁紹と袁術のように、一族でも相反することが常の乱世において個人の人望を拠り所とする義侠的な精神は、そのまま日本の「孝」の精神の模範とされていました。

 

家康が今川から独立を画策したとき、同じ松平氏や農民一揆などで次々と家康から離反される中で忠勝は家康を見捨てずに改宗(仏教の宗派を乗り換える)までして家康に忠義を通したことがあります。

 

張飛も劉備に対しては相手が誰であれ忠義を尽くしていました。

 

劉備の息子・劉禅が張飛の娘を皇后に迎えていることなどからも劉備からの信頼は絶対で、少ない記述からもそれが読み取れます。

 

これほどの活躍をした忠勝でしたが、最晩年は本多正信ら官僚肌が幕府に入り込むことで功績に対してはえらく侘しい恩賞と領地のみで静かに暮らしました。

 

個人的には忠義が有り難い家康も、いざ政治を動かす立場になると忠勝は少々煙たい存在だったのでしょうか?

 

張飛は最終的に蜀の軍事ナンバー2にまで昇格します(ナンバー1は名族だった馬超、関羽は既に死去)。

 

しかし、ここまで張飛が昇格できたのも時代が乱世だったからでしょう。平和な時代に彼のような人物はそこまで出世できなかったでしょう。
忠勝と張飛、彼らは混乱から統一に向かう時代の流れでその役目を終えつつあった、まさに乱世に輝く人物だったのかもしれません。

 

文・いちたか風郎

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