豊臣秀次の最期と側室30人の悲劇!!真田信繁の関係とは?

豊臣家と決して浅からぬ縁のあった真田信繁。

 

信繁と豊臣家との関わりは、真田が豊臣秀吉に臣従した際に上杉景勝から秀吉の元に改めて人質として送られた時から始まります。

 

関ケ原から大坂の陣にかけて信繁は終始豊臣方について戦うこととなりますが、これには徳川と豊臣の両方に付きながら生き残りを図った真田の戦略と信繁の運命が深く関係しているのです。

 

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信繫と秀次の関係

秀吉の天下統一が成ってからしばらくして、秀吉はかねてから後継者として位置付けていた甥の豊臣秀次に関白の地位を譲ります。

 

つまり、この時点で少なくとも名目上の豊臣家の主君は秀次だったと言っていいでしょう。

 

秀吉はちょうどこの頃に朝鮮出兵を企図しており、日本の統治をそのまま委任するという意味がありました。

 

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しかしそれでも秀吉は実権を手放さなかったので、日本は秀吉・秀次の二頭体制となっていました。

 

さて、そんな秀次と信繁の間にはどういう関係があったのでしょうか?

 

実は、関ケ原の後の話になりますが、秀次の娘である降清院(たか)は信繁の側室となり、信繁が亡くなった後に彼の子である幸信を生むこととなるのです。

 

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秀次は信繁より1歳年下ですが彼にとっては義父に当たるのです。

 

つまり、幸信は真田と秀次の血を継ぐ子孫であり、傍系ではありますが信繁は豊臣の血を後世に伝えることとなったのです。

 

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秀次が暗愚と言われる逸話

二代目関白・豊臣秀次といえば、後世まで殺人を何より好んだとされることで知られています。

 

そんな彼の性質から、摂政・関白を文字って「殺生関白」というあだ名が巷で流布していました。

 

秀次の性格を表すエピソードとして、弓や銃、剣術を好んで用いたとされています。

 

彼はその威力と腕前を試したくて、そこらの農民や能芸者を呼びつけては片っ端から腕試しの実験台にしたと言うのです。

 

それと関連して、罪人が処刑される際には自ら処刑人を演じて罪人の四肢を1つずつ切断して散々苦しませて殺したという古代ローマや中国の皇帝さながらのエピソードも残されています。

 

また、女人禁制の聖域である比叡山に女房(当時は妻ではなく侍女という意味)を伴って来ては、夜は淫乱放蕩、そして日中は鹿・猿・狸・狐・鳥類を狩りに狩ったという事も伝えられています。

 

正親町天皇が崩御した際、服喪期間中にも関わらず狩猟を行ったとされる事も彼の暴虐っぷりを伝えるエピソードの1つです。

 

しかし、こうしたエピソードは秀次のような不遇の最期を遂げた人物にはよく付け加えられるお約束のようなものです。

 

同時代では、息子・武田信玄に甲斐から追放された武田信虎にも、妊婦の腹を裂いて胎児を摘み出したとか農民を銃の的にしたというエピソードが伝わっています。

 

秀次にも同様のエピソードがあり、暗君として印象付けるために使い回されていた話だったのでしょうか。

 

淫乱放蕩は彼が30人以上という側室を抱えていたことから流れた噂と考えた方が自然でしょう。

 

彼も権力者ですから、真剣に後継者について考えていたでしょうし。処刑に関してもそもそも実質の天下人である秀次がわざわざ処刑場にいちいち赴くのかという疑問が残ります。

 

当時から秀次に関する悪い噂が流れていたというのは事実のようですが、秀次の暴虐に関する話は大半が伝聞・風聞に近い根拠に乏しい話であると考えた方がより真相に迫っているでしょう。

 

秀次を高評価する逸話

逆に、秀次には優秀さを表すエピソードの方が多く伝わるくらいです。

 

秀吉が信長の家臣であった頃からの問題、それは自分の子供が全くいないことでした。

 

秀吉が天下を握り始めると、それはいよいよ死活問題となっていました。秀次は当時畿内の大名・三好康長の養子となった縁から「三好信吉」と名乗っていましたが、四国が平定されると近江43万国の大名に任命されます。

 

その時の有名な話として、近江八幡で水利を巡る領地争いが起きた際に秀次に採決を求めたところ、田中吉政が自ら赴いて検知を行い、結果原告と被告の双方が納得する採決を下せたという逸話があります。

 

彼は当時17歳に過ぎませんでしたが、田中吉政らの優れた家臣の協力もあって自分の力を発揮するようになりました。

 

少し遡って、小牧長久手の戦いの時に家康の本拠地・三河を攻めようという案が持ち上がった際に、秀次は自ら大将となって前線に出たいと主張しました。

 

この時は秀次の失態によって大損害を被ることとなりますが、彼には二代目にありがちな軟弱さはなく非常に果敢な性格でした。

 

その後、彼は雪辱を晴らそうとして数々の戦で戦功を立てました。

 

そんな彼の頑張りを秀吉もかなり評価していたようで、秀吉が留守の際は秀次が大坂の守備を任されるようになります。

 

官位においても、徳川家康、織田信雄、豊臣秀長に次ぐ第4位として重用されます。

 

彼は武勇だけでなく、あの千利休の弟子の1人に数えられるような教養人・文化人でした。茶道の他に連歌にも長け、小田原征伐の際には経典を保護し持ち帰るように指示したと伝わるほどでした。

 

同じように秀吉の近親者で養子となった者の中に、小早川秀秋がいます(世代は秀秋が2回りも下ですが)。

 

彼もまた秀吉の後継者候補として育てられましたが、若年にして酒にハマり秀吉からは後継者としての資質なしを判断されていました。

 

三成や家康からもあまりよく思われてなかったようです。

 

それに比べると、秀次は戦功も資質も十分な逸材であったということになります。

 

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秀次の最期と側室の悲劇

1593年(文禄2年)、秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれました。

 

それまで後継者として不動の地位を築いていた秀次でしたが、秀頼生誕以降、秀吉と秀次の間には次第に溝が広がっていきました。

 

大陸進出を本気で考えていた秀吉に対し、秀次は国内の安定を第一に考えて賛成していませんでした。

 

1595年(文禄4年)6月末、秀次に対して謀反の疑いがかけられました。

 

秀吉は秀次に対し伏見に出頭する命令しましたが、秀次にはもちろんそんな気などなかったので当初は命令に応じませんでした。

 

しかし数日後、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊から「急ぎ伏見に来い」と言われた秀次は、無実を証明するために仕方なく自ら伏見に行こうとします。

 

しかし、いざ伏見に到着した秀次は秀吉に面会を拒否されて大名の邸宅に留め置かれてしまいます。

 

間もなく、秀次は秀吉の命令によって強制的に出家させられてしまい、高野山に送られます。同時に、30人以上いたとされる秀次の側室(妻妾)にも捕縛命令が下されます。

 

彼女達は丹波亀山城に監禁され、田中吉政の監視下に置かれます。

 

7月15日、高野山に秀吉からの使者が参りました。既に仏門に入っていた秀次に死罪が命じられたのです。

 

通常、仏門はいかなる権力者にも罪科が及ばない場所ですが、これは異例の事態でした。

 

当然、僧侶達の間では秀吉の命令に対し抗議しようという意見が紛糾します。

 

しかし秀次はこの命令に従い、とうとう自害してしまいます。

 

28歳という若さで迎えた最期でした。

 

その首は自害を命じた福島正則によって伏見に送られ、秀吉の元に到着しました。

 

なお、この時に秀次の家臣・小姓の中には秀次の跡を追って殉死した者も複数いました。

 

残された側室達も8月1日には処刑を命じられます。

 

執行日は何と8月2日、翌日には京の三条河原でも大処刑が敢行されます。

 

まずは秀次の子供達が処刑され、続いて側室30人が誅されます。

 

子供の遺体の上に妻妾の遺体が無造作に放り投げられ、そのあまりの乱暴っぷりに観衆からは罵詈雑言が飛び交いました。

 

数時間にも及ぶ処刑の結果、大量の遺体は1つの穴に収められ、その上に秀次の首塚が置かれました。

 

首塚の石塔には「秀次反逆」の文字が彫られました。

 

秀次に出頭命令を下してから一族の処刑まで、僅か1月半という異例の早さでした。

 

被害が及んだのは秀次一族だけでなく、彼の家臣や彼を擁護した大名達にも及びました。

 

助けられたのは隆清院など僅かな人物のみ。

 

秀次の年齢を考えると、隆清院は当時10歳にも満たない幼子だったのでしょう。

 

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まとめ

隆清院は信繁の死後に生まれた幸信に、「三好幸信」と名乗らせます。

 

「三好」とは秀次がかつて名乗っていた姓です。

 

徳川に正面から歯向かった真田ではなく、祖父の旧姓を名乗ったことで、秀次の家系は細々と生き残ることとなるのです。

 

秀頼が生まれた後の秀吉は、それまで築いてきた一族の連帯を全て崩すようなことをしました。

 

秀次事件はその全てのきっかけにあたります。

 

長く実子に恵まれなかった秀吉は、仏門に入っていた謙信や信玄とは違い子だくさんだった信長や家康と比べて何かしらのコンプレックスを抱いていたのではないでしょうか?

 

いや天下人として初めて出来た子供のために、秀吉はそれまでパズルでも繋いでいたかのように増やしていた養子をあっという間に崩してしまいました。

 

養子とはいかに血縁でも他人、秀吉は自分の死後秀次の血筋によって自分の直系が絶たれてしまうことを何よりも恐れたのかもしれません。

 

そのために出した答えがあの大処刑だとしたら、立場は人を鬼に変えてしまうのかもしれませんね。

 

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