真田家と言えば、戦国時代において戦上手と呼ばれる名将を幾人も輩出している名門です。

その中で真田昌幸の父親で、信繁の祖父となる真田幸綱(幸隆)は真田家の祖とされています。

 

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武田信玄の家臣に

真田幸綱が28歳の時、信濃小県郡真田で武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に敗れ、上野国の箕輪城城主・長野業正のもとに亡命することになります。

 

その後、武田信虎は嫡男の武田信玄に追放され、武田家・諏訪家・村上家が壮絶な戦いを展開。

この動乱の中、真田幸綱は武田信玄の配下となり、1548年の上田原の戦いに参戦しています。

 

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上田原の戦いでは、武田家重臣・板垣信方の脇備を務めたようですが、対する村上義清の猛烈な追撃を受けて板垣信方は討ち死に。

武田家は村上軍に大敗北を喫し、甲斐に退却しています。

 

ちなみに真田家の旗印として有名な「六文銭」の旗印は、幸綱が武田信玄に仕えることが決まってから作られたと言われています。

 

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戸石崩れ

信濃の平定を目指す武田信玄は、その後も着々と領土を広げていきます。

そして1550年、ついに村上義清に対してリベンジの機会を得ます。

 

信玄は7000の兵力で村上方の戸石城を攻めます。

この時、戸石城に籠っていた村上方の兵は500でした。

 

戦国大名の中でも戦上手で知られる武田信玄は、戸石城を易々と落とせると思っていたのかもしれません。

しかし、抵抗が激しく、城はなかなか落ちませんでした。

 

その間に村上義清自身が2000の兵を引き連れ葛尾城を出陣。

武田家に降っていた高梨家と手を結んで武田軍を挟撃します。

 

この戦でも信玄は敗れ、1200の兵を失ったと言われています。

これは武田信玄にとっての人生最大の敗北と言われ、「戸石崩れ」と呼ばれます。

 

昌幸に受継がれる謀略

武田信玄が攻略に苦しんだ戸石城ですが、翌年1551年、真田幸綱はあっさりと攻略し落城させてしまいます。

幸綱のこの快挙は、相当なインパクトを武田信玄と武田家の家臣に与えたはずです。

 

これによって真田家は、武田家家臣の中では外様衆でありながら譜代衆同様の待遇を受けることになり、甲府に屋敷を構えることを許されます。

では、信玄が攻略に苦しんだ戸石城を、幸綱はどうやって落としたのでしょうか?

 

その方法は真田昌幸にも受継がれる幸綱の調略でした。

まず、真田幸綱は戸石城の足軽大将を味方に引き入れることに成功。

 

この内応者の働きで戸石城は簡単に落ちたのです。

 

ちなみに戸石城の足軽大将を務めていたのが矢沢頼綱。

矢沢頼綱は真田幸綱とは兄弟で、真田昌幸の叔父になります。

 

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矢沢家に養子に出された矢沢頼綱は、この時は村上側として合戦に参加していました。

このように同族で敵対する二手の勢力に分かれることは戦国時代にはよくあること。

 

大阪の陣で豊臣方と徳川方が争った際にも、真田家は二つに分かれて戦っています。

真田昌幸の嫡男・信幸は徳川方、次男・信繁(幸村)は豊臣方という感じです。

 

どちらが勝利しても家名を存続させられるという効果的な方法でした。

 

しかし矢沢頼綱は主君である村上義清を裏切り、兄である真田幸綱に協力します。

この内応により、戸石城は陥落。

 

真田家の武名を一躍世に示すことになりました。

 

村上義清はここから一気に防衛ラインを下げることとなり、やがて上杉家へと亡命していきます。

そして物語は川中島の戦いへと進んでいくのです。

 

功績を認められた真田幸綱は嫡男の真田信綱と並んで、名誉ある武田二十四将に選ばれて後世に名を残すこととなります。

武田信玄にとって天敵である村上義清を倒すチャンスを作った真田幸綱は、絶大な信頼を寄せるに値したに違いありません。

 

父親の真田幸綱から子の昌幸へ、そして孫の信繁へと受継がれる真田家の謀略の才能。

 

真田家のDNAは恐るべしですね。

 

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