真田昌幸が武田信玄に仕えていた頃に名乗っていた名前が武藤喜兵衛(むとうきへえ)。

武藤喜兵衛は足軽大将として信玄から将来を期待された存在でした。

 

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武藤喜兵衛という名前を名乗っていた昌幸

真田昌幸は真田家当主・真田幸隆の三男として1547年に誕生します。

 

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昌幸が生まれた当時は、長男の信綱、次男の昌輝が健在でしたので、家督を継ぐことは考えられない状態でした。

そのため、7歳の頃に人質として甲斐へ送られ、武田信玄の奥近習衆として働きます。

 

近習となってからは武田信玄に器量を認められ、相当可愛がられたと言われます。

そこで甲斐の名門である武藤家の養子になることになります。

 

武藤家は武田信玄の母方の一族でしたが、家督を継げる者がいなかったようです。

武田信玄の目に留まり、名門の養子となった真田源五郎(昌幸)は武藤喜兵衛と名を改め、足軽大将となります。

そして騎馬15騎、足軽30人を率い、1561年の第四次川中島の戦いで初陣を果たします。

 

第四次川中島の戦いは、5回行われた川中島の戦いで最も大きな戦として有名。

山本勘助が立案した啄木鳥戦法を上杉謙信が見破った事で、信玄と謙信の一騎打ちがおこなわれるほどの激闘となります。

 

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この時は完全に真田家を離れ、甲斐の名門・武藤家の嫡男として武田信玄の信頼を得ていきます。

 

昌幸も信繫と同じく武田家の人質として生活した時代があったというのは意外でしたが、有力者に引き立ててもらえるという事を考えると、人質というのは悪い事だけではなく、出世のキッカケになることの方が大きかったんですね。

 

信玄の両目と呼ばれる

1569年には武田家と北条家が同盟を切って戦いあう「三増峠の戦い」がありました。

 

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序盤は北条軍が優勢でながら、後半は武田軍が盛り返すという攻防で、武田信玄は勝鬨をあげて甲府に引き返しています。

 

このとき武藤喜兵衛は武田信玄の使番として、先鋒である武田家四天王の馬場信春の陣に赴き、一番槍の功名もあったと言われています。

真田丸の中では徳川家康が三方が原の戦いで武藤喜兵衛に苦戦したと言っていますが、この辺りも実はハッキリしていない部分がほとんどです。

 

武藤喜兵衛は武田信玄の側近なので、多くの兵を率いる武将でもなく、もちろん大名でもありません。

そのため、名前は表舞台には出て来ていないんですね。

 

信玄からの扱いは重臣級だったそうですが、大きな活躍は見られないというのが正直なところです。

しかし、あの武田信玄から「私の両目である」と評されているので、信玄の側近として優秀な働きをしていた事は間違いありません。

 

長篠の戦い後に真田に復姓

武藤喜兵衛の転機は1575年の長篠の戦いでした。

武田家の当主は信玄から勝頼に変わり、武藤喜兵衛も武藤家の家督を継ぎ、28歳で武田勝頼の旗本衆となっていました。

 

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この戦いで武田家は織田信長・徳川家康連合軍に敗北し、壊滅的な損害を受けます。

 

武田勝頼、武藤喜兵衛は無事に甲府に退却できましたが、武藤喜兵衛の長兄で真田家の当主であった真田信綱と次兄・真田昌輝がそろって戦死。

真田家の家督は真田信綱の子が継ぐことなく、武藤喜兵衛が引き継ぐことになります。

 

これについては武田家四天王のひとり、高坂昌信と主君・武田勝頼の推薦があったようです。

武藤喜兵が真田姓に復姓することで、徳川軍を2度も撃退し後世に名を残す真田昌幸が誕生します。

 

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昌幸は関ヶ原の戦いで敗北し高野山で最期を迎えますが、もし大阪の陣まで真田昌幸が生きていたら徳川家康の運命は変わっていたかもしれないと言われています。

 

小領主の三男でありながら、天下に鳴り響く活躍を見せた真田昌幸。

もし、真田丸のセリフにあるように、昌幸が武藤喜兵衛と名乗っていた時代に三方が原の戦いで徳川家康との直接対決があったとしたら家康にとっては本当の天敵と言える人物だったでしょうね。

 

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