上野国利根郡にあった沼田城は、北関東の要衝として周辺の勢力が奪い合いを行った激戦地です。

時には上杉家の領土に、時には北条家の領土に、そして武田家や織田家、独立勢力となった真田家の領土と目まぐるしく領主が変わっていきます。

 

武田家の配下として真田家が沼田城に係わるようになるのは1580年以降。

そしてこの沼田城を巡って大活躍するのが矢沢頼綱という武将です。

 

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矢沢頼綱とは?

矢沢家は真田家とはもともと敵対関係にありましたが、真田幸隆(幸綱)の弟である真田頼綱が矢沢家の養子に入り、家督を継ぐことで和解します。

 

矢沢頼綱は真田昌幸にとって、父の幸隆と共に真田家を盛り立てた叔父さんにあたります。

 

頼綱は武勇に優れ、合戦では多くの手柄を立てている武将で、甥の昌幸が真田家の当主となってからは昌幸に仕え、昌幸も大いに頼綱を頼りにしていました。

1582年、主家の武田家が織田家に滅ぼされた後に本能寺の変が起こり、周辺の勢力が旧武田領の奪い合いを始めます。

 

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その中でも沼田城は交通の要所にあるため、どの勢力からもも当然のように狙われます。

 

沼田城は元々は北条家から矢沢頼綱が奪い取った城。

北条家は沼田城を奪還すべく5千人の兵を進めてきます。

 

沼田城を守る矢沢頼綱は、この時64歳でした。

真田家は代々、山岳地帯での用兵戦術に長けていて、忍びの里として有名な戸隠れの里も真田領の周辺です。

 

もちろん忍者のような術を用いたわけではないと思いますが、小規模な部隊を自在に操り、神出鬼没な攻撃で相手を悩ますことにかけては真田家の右に出る者はいなかったのではないでしょうか。

この戦いでは矢沢頼綱は自身で五百の兵を率い、鬼のような突進で千五百の陣を崩し、一時撤退する五千の兵に奇襲を仕掛けて大きな損害も与えています。

 

昌幸の父・幸隆(幸綱)もそうですが、真田家の人物は本当に武勇と智略に優れた人ばかりです。

 

一方、力で沼田城を攻め落とせなかった北条は、何とかして要衝の沼田城を手に入れようと画策。

そこで徳川家康に仲立ちを願い、領地替えを提案します。

 

この時真田昌幸は徳川家康についていたのですが、自分達で勝ち取った領地を徳川の命令で北条に渡す道理はないと、これを断り、真田家と徳川家の仲は決裂します。

 

第一次上田城の戦い

1585年、真田家は徳川家と北条家の連合軍と戦うことになります。

 

上田合戦(第一次上田城の戦い)と呼ばれるこの戦いでは、徳川家が真田昌幸の上田城を攻め、北条家が沼田城を攻めました。

 

このときの北条家の軍勢は三万人だったといいます。

もちろん北条は何が何でも沼田城を落城させる気で、軍を二手に分けて進軍してきます。

 

しかしこの戦いでも頼綱の智略が冴えわたり、北条軍を手玉に取ります。

一軍は空城の計(自分の陣地に敵を誘い込んで戦う計略)にかかり、油断したところを奇襲でされて大敗。

もう一軍も沼田城に仕掛けられた火計の罠にはまり大敗しています。

 

少数ながらも地の利を活かした矢沢頼綱の戦略は的確に北条家の隙をついて、大打撃を与えることに成功しています。

真田家が上杉家と同盟を結び、後詰をしてもらっていたことも、北条家を警戒させ、矢沢頼綱が積極的な戦略を選択できた原因のひとつです。

 

その後も北条家はこの沼田城奪還に燃え、七万の大軍を送り込んできます。

しかし、利根川と薄根川の合流地点の台地上に作られている(崖城)沼田城は、大軍の利が活かせない要害。

 

ここでも矢沢頼綱は、進軍する北条軍が渡河するための橋を切り落とし、鉄砲による奇襲を仕掛けて撃退します。

 

北条軍を3度も撃退した矢沢頼綱。

真田昌幸の躍進の影には間違いなく頼綱の功績がありました。

 

その後の真田家の戦、関ケ原の戦いや大坂の陣においても常に少数の兵でありながら、大軍相手に互角以上の戦をしてみせます。

 

真田家の人物の多くが戦上手だった事をみると、少数で大軍を翻弄する戦い方は真田家の人間のDNAに染み付いた戦い方だったのかもしれません。

 

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