石川数正が徳川家康を裏切って秀吉についた理由!!

徳川家康が人質として今川義元の元に居た時期から家康を支え続けた家臣・石川数正。

 

徳川家康が人質として織田家や今川家を転々としている頃から傍に仕えていたわけですから、まさに旧知の友と呼べる間柄です。

 

年齢は徳川家康よりも10歳ほど年上。

 

徳川家康が参戦した戦さには常に出陣して活躍、実際に徳川家康のために自らの宗派まで変えて仕えるほど忠誠心の厚い人物でした。

 

しかし、数正が突如家康を裏切り、豊臣秀吉の家臣となってしまいます。

 

果たして裏切りの理由とは?

 

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家康の右腕

石川数正は家康にとって忠義も手柄も十分な武将。

 

徳川家の中でも重要な地位にあり、家康にとって重要な城と言える岡崎城の城代を務めるようになります。

 

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岡崎城は家康が誕生した思い出深い城。

 

その城を任されると言う事は家康に信頼の深さの証し、数正はまさに誰もが認める徳川家の柱石でした。

 

秀吉との外交

そもそも、三河武士というのは質素倹約、忠義のためなら己を捨て、私欲に走らないと言われる気質で、その代り主従の関係であっても己の信念は絶対に曲げないという恐ろしく頭の固い集団でした。

 

そんな頑固者ばかりですから、政治的な駆け引きを必要とするような外交には不向きで、むしろそれが得意だと三河武士に非ずと非難されるぐらいでした。

 

しかし、石川数正は多感な少年期を今川家で過ごしていたということもあるのか、三河武士の中では珍しく視野が広く柔軟な考えができる人物でした。

 

インテリという捉え方もできます。

 

織田信長が本能寺の変で亡くなり豊臣秀吉が台頭してきてから、数正は外交官として交渉にも赴くようになるのですが、豊臣秀吉相手に交渉できる人物はこの石川数正をおいて他にいなかったと考えられます。

 

特に豊臣秀吉は引き抜きの天才ですから、家康にとって忠義の厚い石川数正は交渉役にはうってつけだったのでしょう。

 

しかし、この家康の考えはあっけなく裏切られてしまう事になります。

 

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家臣団の派閥争い?

1584年、小牧・長久手の戦いという豊臣秀吉と徳川家康の直接対決。

 

内容的には豊臣秀吉が負けるのですが、最終的に和睦という形になり表向きは引き分けで終戦します。

 

この時、天下に鳴り響いたのが徳川家康の戦上手の声。

 

小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉の勢力が滅びるとか、大きく権勢が傾くといったことはありませんでした。

 

しかし、天下統一を目指す豊臣秀吉としては大問題です。

 

徳川家康は織田信長の唯一の同盟者にして、幾多の戦場を渡り歩いてきたいわば武士の羨望の的。

 

秀吉からすると徳川家康と敵対するよりも、何としてでも傘下にしたいというのが本心でした。

 

そこで秀吉は、家康が膝を屈したと世間に知らしめるため盛んに上洛を要請。

 

この時、徳川家ではあくまでも戦いで白黒つけようとする主戦派と融和派(天下の形勢はもう決まっているのだから仲良くしたほうが賢明)の意見の衝突になります。

 

石川数正は融和派の筆頭で豊臣秀吉との外交の交渉担当。

 

主戦派は石川数正が豊臣秀吉に取り込まれていると疑いを持ちます。

 

この対立の後、突如石川数正は徳川家を出奔。

 

豊臣秀吉に家臣として迎えられます。

 

これにより徳川家は大混乱。

 

トップハンティングされているので、内情や戦術などの情報が筒抜け状態です。

 

そのため、この数正の裏切りを機に、徳川家は軍法を従来のものから武田流(武田家滅亡後に武田の旧臣を召抱えていたため)に改めています。

 

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裏切りの理由

今現在、数正が家康を裏切った理由というのはハッキリ分かっていません。

 

しかし、一般的に数正が家康を裏切ったのは下記のよう理由からだったとされています。

 

  1. 秀吉と接するうちにその器量に惚れ込んだ。
  2. 単純に恩賞(加増)に目がくらんだ。
  3. 強硬派である本多忠勝らから秀吉との内通を疑われ、徳川家に居づらくなった。
  4. すでに家康との仲が悪くなっていた。
  5. 徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移り家中で立場がなくなった。

 

書籍では様々な考察がありますが、私が思う理由としては、古臭い考えがはびこる三河を捨てて、新しい価値観が主流になる新時代にかけてみようという野心を感じなくもありません。

 

簡単に言うと徳川家康を見限り裏切ったことになります。

 

しかし、ここまでのキャリアを積んだ忠誠心厚い男がそんな行為に及ぶものなのかは疑問がのこるところで、数正はスパイとしてあえて徳川を裏切ったフリをして豊臣方に近づいたという説もあります。

 

ただ、実際は徳川家の実権が数正から浜松衆に移り、徳川家での影響力を失っていった事がおもしろくなかったのではないかと思います。

 

数正の場合、現代の会社でも多く見られる、古参の社員が新しく入った社員に立場を追われるという構図に似ているような気がします。

 

特に頑固で知られる三河武士から一度嫌われたらずっと引きずりそうですから、家中でも本当に居場所がなかったのではないかと思います。

 

何か露骨に嫌がらせされそうですしね(笑)

 

それが良かったのか悪かったのか?

 

石川数正は家康を裏切り豊臣秀吉の家臣となった事で信濃松本10万石(一説には8万石)の大名となっています。

 

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