小早川秀秋(木下辰之助)は豊臣秀吉の正室・寧(ねね)の甥。

長い間子供が出来なかった豊臣秀吉の養子となり、秀吉の後継者の1人として優遇されていきます。

 

しかし秀秋は武将としての資質が欠ける部分があったとされ、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った事などから凡将や愚鈍という評価が一般的になっています。

 

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小早川秀秋の性格と武将としての資質

小早川秀秋の性格は武将というよりは芸事を得意とする文化人に近いものがあったようです。

そのため、武芸を磨くというよりは蹴鞠などの遊びに熱中する日々。

 

Kobayakawa_Hideaki

 

若くして酒を呑む様になってからは、深酒をして寧を心配させる事が多く自堕落な生活をしていたものと思われます。

肖像画を見てもいかにも頼りないおぼっちゃんという感じですよね(笑)

 

そんな武将としての資質に欠けるとされる秀秋ですが、秀吉は自分の親族として重用し、後継者候補として丹波亀山に10万石を与えています。

しかし、秀吉と茶々(淀殿)の間に秀頼が生まれると状況が一転。

 

秀秋の存在が邪魔になった秀吉は、秀秋を毛利輝元の養子にしようと計画します。

これは秀吉の軍師であった黒田官兵衛の策で、毛利家の乗っ取りを画策するものでした。

 

しかし、策略に気づいた毛利輝元の家臣・小早川隆景が秀秋を自分の養子に貰いたいと進言して毛利家を守っています。

愚鈍と評される秀秋を自分が養子に貰う事で毛利家を守った小早川隆景ですが、後に秀秋が当主となることで小早川家は戦国の世から名前を消す事になってしまいます。

 

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関ヶ原裏切りの理由

やがて関ヶ原の戦いが起こると小早川秀秋は西軍として参戦します。

しかし、内心では徳川家康に内応する事を決めていて、黒田長政を通じて機を見て西軍を裏切る予定になっていました。

 

石田三成や大谷吉継はこの動きを察知して、秀頼が大人になるまで関白になってほしいと伝え、秀秋を西軍に繋ぎとめようとします。

しかしそれでも秀秋の心は変ることなく、関が原の合戦の最中に西軍を裏切り大谷吉継の隊に攻めかかっています。

 

ではなぜ小早川秀秋は西軍を裏切り東軍に付いたのでしょうか?

その理由は、石田三成と徳川家康のどちらに付くか迷っている時に、ねね(北政所)が東軍に付くようにアドバイスしたからだと言われています。

 

もちろん、これだけが東軍に付いた理由ではないと思います。

しかし、愚鈍と評される秀秋の事なので寧(ねね)の一言で決断したとしてもおかしくはありません。

 

秀秋の死因は大谷吉継の呪い?

関ヶ原で東軍勝利のキッカケを作った小早川秀秋はその後の佐和山城攻めにも参加。

論功行賞では宇喜多秀家の領地だった岡山55万石を与えられます。

 

しかし、この岡山に入ってからの小早川家は問題続き。

長年、小早川家を支えた家老が秀秋を見限り出奔、そして秀秋自身も以前より増して酒に溺れるようになったといいます。

 

また、関ヶ原の戦いで小早川軍の攻撃を受けて壊滅した大谷吉継は秀秋を心底憎み、『三年の間に祟りをなさん』と言ってこの世を去りました。

大谷吉継だけでなく西軍を裏切った事で多くの諸将から恨みを買っていた秀秋は、吉継や石田三成の幻を見ることがあったそうです。

 

そんなことがあって秀秋は精神がおかしくなり、関ヶ原の戦いから2年後に半狂乱になって亡くなったと言われています。

これは大谷吉継の祟りではないかと言われていますが、実際は酒を呑みすぎて内臓を壊したことが死因だとされています。

 

しかし、大谷吉継らの亡霊に悩まされて酒の量が増えていったのだとすれば、あながち吉継の祟りではないとは言い切れないかもしれません。

秀秋の死によって小早川家は改易となり、秀吉の五大老まで務めた小早川家は歴史の表舞台から姿を消してしまう事になります。

 

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