徳川家康の家臣として有名な服部半蔵。

服部半蔵に関しては多くの人が『忍者』や『忍び』というイメージを持っていると思います。

 

しかし、実際の服部半蔵は忍者ではなく、槍を得意とし戦場で活躍した戦国武将でした。

 

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服部半蔵という名前

実は服部半蔵という名前は代々服部家の当主が名乗ってきた名前。

つまり服部半蔵という人物は歴史上に何人も登場し、〇代目・服部半蔵と呼ばれます。

 

Hanzo

 

中村勘三郎など歌舞伎の世界で名前が受継がれるのと同じ感覚ですね。

一般的に服部半蔵と言えば、徳川家康の天下取りを支えた2代目・服部半蔵(正成)の事を指すので、今回はこの服部半蔵正成の逸話をご紹介します。

 

槍の名人

徳川家康には渡辺守綱という武勇に優れた家臣がいたのですが、服部半蔵はこの渡辺守綱と並んで『鬼半蔵』と呼ばれていました。

鬼という異名の通り、合戦では大いに活躍し、姉川の戦いや三方が原の戦いにも参加。

 

三方が原の戦いでは武田信玄の軍に大敗を喫して撤退する徳川軍の中にあっても戦功を上げるなど、本多忠勝と並んで徳川家の猛将として活躍しています。

このことからも服部半蔵は諜報活動や裏工作をするといった忍者ではなく、戦場で槍を振るって戦う戦国武将だったという事が分かります。

 

ではなぜ服部半蔵=忍者というイメージがついたのか?

それは徳川家康から伊賀衆を預けられていたことにあるようです。

 

服部半蔵は伊賀衆という伊賀忍者を束ねていたので、伊賀衆の頭領という立場ではありました。

ただ、服部半蔵(正成)自身が忍者や忍びというイメージは後世の人によって作られたもののようです。

 

服部半蔵の逸話

徳川家康と織田信長が同盟を結んでいた時期。

信長は家康の長男・信康が武田家に内通しているとして処断するように家康に求めます。

 

この時の織田信長と徳川家康の関係は同盟といっても対等ではなく力関係は家康の方が下でした。

そのため家康はやむなく長男である信康を自刃させるという決断を下すのですが、その時に家康が介錯を命じたのが服部半蔵でした。

 

家康はせめて信康が苦しむ事がないようにと、家中でも最も腕の立つ半蔵に介錯を命じたと言われます。

しかし、半蔵は『主君(家康)の息子に刃は向けられない』と涙を流し、どうしても信康の介錯をすることが出来なかったと伝わっています。

 

半蔵が信康の介錯が出来ないほどの深い接点があったかどうかは分かりませんが、この逸話は猛将と呼ばれ戦場を駆け回った半蔵の人間味を感じさせる逸話です。

 

服部半蔵の最期

家康の下で武功を挙げた半蔵は小田原征伐の後には8000石を有するまでになっていました。

しかし『鬼半蔵』と呼ばれた服部半蔵も天命には逆らえず、1596年に54歳でこの世を去っています。

 

半蔵が最期を迎えた1596年は関ヶ原の戦いが起きる4年前。

天下分け目の戦いを前に家康は有能な腹心を失ってしまう事になります。

 

服部半蔵は現在の東京都新宿区にある西念寺に葬られているのですが、この西念寺は服部半蔵が介錯することが出来なかった徳川信康の菩提を弔うために建てた寺の後身とされています。

 

そして現在の江戸城跡(皇居)にある半蔵門。

この半蔵門は服部半蔵の屋敷がこの門のすぐ側にあり、門の警護をしていたということに由来しています。

 



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