黒田官兵衛(如水)の最期と辞世の句!

花燃ゆの話題を中心に記事を書いていましたが、少し軍師官兵衛の話題が増えすぎてしまいましたね(笑)

 

ということで、花燃ゆの話題に集中するためにも今回で官兵衛の話題は最後にしておきます。

 

今回は黒田官兵衛の辞世の句をご紹介したいので、最終回(50話)の展開と絡めて記事を書いてみたいと思います。

 

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最終回の展開

9月22日に長野県諏訪郡で軍師官兵衛の最後のロケが行なわれました。

 

今回は80人のエキストラを交えての合戦シーンで、浜田岳さんが演じる栗山善助が騎馬隊を率いて突撃する場面なども撮られたようです。

 

これは、官兵衛から家督を譲られた長政が、黒田家の本隊を率いて関ヶ原で戦っている時期に、九州で兵を挙げた官兵衛の戦いを描いたもの。

 

官兵衛が蓄財していた金銀を惜しみもなく使い、兵を集めて九州を猛烈な速さで切り従えた戦いでした。

 

この九州の戦いの中でも有名な官兵衛が大友義統と戦った合戦を石垣原の戦いと言います。

 

この石垣原の戦いは井上九郎右衛門が大活躍する戦いなので、高橋一生さんのファンの方は注目しておいたほうがいいですね(九郎右衛門の活躍がどこまで描かれるかは不明ですが・・・)。

 

これは49話で描かれます。

 

そして、気になる最終回は関ヶ原の開戦から終結へ、合戦後の如水と家康のやり取り~如水の最期へと話が展開されていきます。

 

黒田長政の活躍によって、関ヶ原の合戦は1日で決着がついてしまいます。

 

こればかりは如水も想定外だったようで、九州全土を従える前に停戦を強いられる事になります。

 

戦が終わってからは家康との腹の探り合い。

 

しかし、如水の中には時代の流れが家康に向いているという確信があったのでしょう。

 

既に家康に抗う気持ちもなく、長政の新しい領地、福岡に移って平和な暮らしをする事に心は決まっていました。

 

黒田官兵衛(如水)の最期

官兵衛の晩年の逸話として、家臣が早く長政の代になってほしいと思うように、わざと家臣に対してきつくあたるようになったという話が残っています。

 

そして、関ヶ原の合戦後、長政が自分の活躍で関ヶ原の合戦で勝つ事ができたと、家康が自分の手を取って喜んだという報告に、空いた方の手でなぜ家康を刺し殺さなかったのか?と問うたとも言われています。

 

この辺りの逸話が、腹黒い策略家という官兵衛のイメージに繋がっていますね。

 

官兵衛は関ヶ原の戦いの4年後に京都伏見の屋敷で亡くなります。

 

死因は梅毒とも言われていますが、ハッキリした事は分かっていません。

 

ただ、『人間五十年』と歌われた時代に、官兵衛はは59歳まで生きています。

 

そして、秀吉の命により一度は棄教しますが、キリスト教に対する思いは強かったようで、長政にはキリスト教の教えに従って葬儀をするように遺言しています。

 

そのため博多では官兵衛の壮大な葬儀がキリスト教式で行なわれました。

 

現在、福岡に立派な官兵衛の墓が建っています。

 

黒田官兵衛墓

 

しかし、官兵衛の遺体はここには眠っておらず、官兵衛が葬られた場所はハッキリと分かってないようです。

 

辞世の句

晩年の官兵衛は福岡城の中に質素な屋敷を建てて、領民や領民の子供たちとも気軽に話しをするなど、悠々自適な暮らしをしていました。

 

そんな官兵衛の辞世の句と言われるのが下記の歌です。

 

思いおく 言の葉なくて ついに行く 道は迷わじ  なるにまかせて

 

戦国乱世を生き抜いた官兵衛の気持ちが表れている辞世で、私の大好きな歌です。

 

この頃の官兵衛は生きる事に執着する事もなく、悟りの境地に達していたのではないかとさえ思えるような辞世ですね。

 

『道は迷わじなるにまかせて』・・・・かっこよすぎます。官兵衛さん。

 

追記

軍師官兵衛では黒田官兵衛の亡き後の大坂の陣も描かれます。

 

徳川対豊臣の最後の戦ですが、この時の豊臣方に、長政との不和から黒田家を出奔した後藤又兵衛がいました。

敵味方に分かれたかつての主従。

 

兄弟のように育った長政と又兵衛の対峙、そして黒田武士として華々しい最期を向かえる又兵衛にも注目です。

 

 

関連記事⇒後藤又兵衛_大坂夏の陣での奮戦と最期!!

 

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