黒田官兵衛(如水)の最期と辞世の句!その人生の目的は何だったのか?

過去の大河ドラマでは天下取りの野望を持っているように描かれた黒田官兵衛ですが、彼の天下取りの野望は決して長年抱いていたものではなかったように思えます。

 

元々黒田家は既に没落した赤松氏の家臣の小寺家のさらに家臣。

そんな黒田家が上にたてたのも戦国時代だからこその出来事でしょう。

 

しかし黒田官兵衛は主君・豊臣秀吉ほど功名心に溢れていたようにも見えないのですが、いったいどの段階から天下を目指そうとしたのでしょうか?そして彼はどのような人生の目的を持っていたのでしょうか?

 

今回は、黒田官兵衛の生涯と人生の目的について、彼が経験してきた事件と彼の教養を振り返りながら見ていきましょう。

 

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黒田官兵衛ってどんな人?

 

 

黒田孝高(くろだよしたか)

生没年 1546年~1604年

出身 播磨国姫路

改名歴 小寺万吉→祐隆→孝隆→黒田孝高→如水円清

主君 小寺政職(まさもと)→織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康

信仰 キリスト教・仏教

特技 茶道、築城、和歌、連歌、将棋、節約

身体特徴 足が不自由

 

略年表

1546年 播磨国姫路で生誕、幼少期から文学に耽溺

1562年 初陣

1567年 家督を継ぎ、姫路城代となる

1575年 羽柴秀吉の仲介で織田信長と謁見

1577年 松寿丸(長政)を人質に送り、秀吉の参謀として仕え始める

1578年 荒木村重によって地下に1年間幽閉され、のち救出される

1580年 自分を裏切った小寺政職が逃亡し小寺氏が滅亡、官兵衛は正式に織田家臣となる

1582年 備中高松城攻めの最中に本能寺の変を知り、秀吉と共に明智光秀を討つ

この頃、キリスト教に帰依する。軍監として四国・九州征伐に従軍。その功績で豊前を与えられる。

1589年 家督を長政に譲って隠居、自身は大坂にて秀吉の傍で暮らす

1590年 小田原征伐にて北条氏に降伏を勧告、無血開城を成功させる

1593年 文禄の役の失敗を咎められ、出家して難を逃れる

1598年 慶長の役、現地にて秀吉の死を知る

1600年 九州にて独自に軍事行動を起こすも途中で家康に中止を命じられる

1604年 京都伏見藩邸にて死去

 

下剋上の真っ只中で過ごした若年期

黒田官兵衛の仕えた小寺氏は本来室町時代の名門・赤松氏の分家でしたが、赤松氏は戦国時代に入ると浦上氏の台頭によって没落し、浦上氏ものちに家臣の宇喜多氏に乗っ取られます。

赤松氏はどんどん支配領域を削り取られ、しまいには西播磨だけの小さな勢力となってしまいました。

 

小寺氏は没落した赤松氏を唯一保護している勢力でしたが、実験はやはり小寺氏が握っており、当時の兵庫県は下剋上の真っ只中でした。

官兵衛が生まれたのはまさにこの下剋上が行われていた時です。

 

黒田氏は官兵衛の父・職隆の時代に小寺氏の娘を妻としたために小寺姓を名乗ることを許されていました。

官兵衛は小寺政職の近習となり、早くから小寺氏に取り入った生活を送りました。

 

官兵衛が世に出だした頃、尾張の織田信長が台頭を始めます。

信長は今川義元、斎藤龍興を倒し足利義昭を伴って京へ上洛を果たしますが、この間に官兵衛は結婚し姫路城主となります。

そして少しずつ赤松氏や浦上氏の対立に巻き込まれる形で歴史上に顔を出すようになります。

 

上洛を果たしたばかりの信長は播磨の旧勢力のいざこざにあれこれ口を出す余裕はなく、しばらくは顔を出す程度の存在でした。

この頃の官兵衛は天下を担う軍師という存在とは程遠い一城主に過ぎませんでした。

しかし彼はこの頃すでに自分の主君をはるかに凌ぐ信長という存在を強く意識し始めたと考えられます。

 

織田政権の中で生きることを選択

1573年、信長が義昭を京から追放すると朝倉義景、浅井長政を滅ぼし、次いで長篠で武田勝頼を破り武田氏は重臣を多く失い著しく弱体化します。

こうなると信長が次に目を向けたのが義昭が裏で動かしている安芸の毛利です。

 

織田vs毛利という構図が出来上がろうとすると、官兵衛は政職に信長への臣従を進言します。

ちょうどこの地域を担当していた羽柴秀吉の仲介を受けて官兵衛は信長に対面することを許されます。

 

これが官兵衛にとって大きな契機だったのです。

周囲の赤松、浦上、宇喜多といった所詮は小さな領土しか見ていない連中と全てを飲み込もうとする信長、どちらにつくべきかはいうまでもありません。

これによって小寺氏は反毛利勢力の玄関口としての役割を担うようになります。

 

 

官兵衛は戦も得意であったので次第に小寺家臣としてではなく織田の客将として頻繁に織田に出入りするようになります。

居城・姫路城に羽柴秀吉を招き本丸を譲渡、自らは三の丸に住みほとんど織田氏の家臣化していました。

 

合戦が激化する中、官兵衛は宇喜多直家を調略して織田軍に引き込むことに成功します。

しかし逆に信長に仕えていた荒木村重が毛利に寝返ります。

 

これに小寺政職も呼応し、官兵衛は村重を説得しようとして地下牢に捕らえられます。

実に1年もの間地下にいたのち救出され、織田軍は別所長治、小寺政職を倒して村重の反乱に始まる騒動を鎮めます。

 

これ以後、官兵衛は秀吉の与力として正式に織田家に仕え、姓も黒田に戻します。

以降は秀吉の中国征伐に従い参謀として活躍します。彼の目に狂いはないはずでした。

 

秀吉を信頼、しかし足を洗わざるを得ず

1582年、秀吉率いる中国征伐軍は備中高松城を水攻めし、間もなく決着がつこうとしていました。

そこに本能寺の変の報せが届きます。

信長死去。

 

宙ぶらりんとなった各地の織田軍ですが、秀吉はすぐさま中国大返しにて光秀を討ち、その勢いでライバルの柴田勝家を討ち、織田信雄と和睦し徳川家康ら諸大名を従えます。

秀吉の天下統一も間近でした。

官兵衛はずっと秀吉につきしばしば軍監として従っています。

 

秀吉の直参となって間もなく、官兵衛は高山右近や蒲生氏郷らの勧めでキリスト教に帰依しています。

しかし秀吉が禁教令を発令するとあっさりと棄教してしまいます。

 

秀吉は宣教師らが日本侵略を考えているスペインの手先であると考えていたことから最後にはキリスト教に対して迫害を行います。

その信仰心ゆえに高山右近が追放されたのは有名ですが、官兵衛も秀吉に棄教を命じられそれに従いながらも領内ではこっそりと布教を続けていました。

これにより、官兵衛はその比類なき活躍の割に見合った領地をもらえませんでした。

 

官兵衛はやがて息子の長政に家督を譲って隠居しますが、大坂にて秀吉に仕えるよう命じられています。

隠居となった後も官兵衛は秀吉にとっては現役の謀臣でした。小田原城の開城のために説得をし、文禄の役でも軍監として渡海します。

 

しかし日本軍は決して一枚岩ではなく、加藤清正、小西行長らの争いを筆頭に統制が乱れに乱れ官兵衛が思ったような結果を出せません。

やがて官兵衛は病となり帰国しますが、秀吉は戦果を出していないことに怒り官兵衛を追い返します。

やむなく戻った官兵衛は引き続き作戦を練りますが、すでに石田三成や小西行長が独断で明・朝鮮と和睦を結んでしまいます。

 

この過程で三成らは現地で軍監だった官兵衛に失敗の責任を押し付ける形になる発言をしてしまい、秀吉は官兵衛を罪に問おうとしたとされています。

官兵衛は長政に遺書を書くほど追い詰められましたが、出家したことでどうにか許されています。

 

これ以降官兵衛は「如水」と名前を改めます。

一般的に、如水とは老子の中になる「上善如水(上善は水の如し)」というフレーズの中から抜粋したといわれています。

老子は、世の中を生きるためには水が上から下へ流れるように低いところに留まり上を目指す功名心の争いから降りて自然体になって生きることを説きました。

 

無為自然と呼ばれる思想ですが、如水も若手である三成に追い落とされたことで何かしら思うところがあったのでしょう。

 

官兵衛は続く慶長の役でも軍監として渡海します。

しかし今回は前回の失敗をふまえて戦線の縮小が行われます。

 

奉行の三成らも窮地に追い込まれた加藤清正らを助けようと必死でしたが、その妹婿である福原長堯が秀吉に黒田長政や小早川秀秋の軍令違反を報告したために秀吉は彼らの領地を削ることを簡単な言伝のみで決めてしまいます。

長政らはこれを全て「三成のせいだ」と誤解していしまいます。官兵衛も当然いい気持ちはしなかったでしょう。

そんな折に秀吉が亡くなってしまいます・

家康を天下の主と見定める

秀吉の死後、国内に残っていた徳川家康、前田利家らが中心となって朝鮮出兵を終わらせ日本軍は無事撤退します。

しかしこの朝鮮出兵の中で大名間の諍いが余計に明らかになってしまい、もはや止められないところまでいってしまいました。

家康や利家もこれをわかっており、特に家康は秀吉の遺言に背き諸大名と徒党を組み政略結婚を拡大します。

 

これに怒ったのが利家と三成です。

そして京・伏見の家康と大坂の利家を中心に諸将が集まり一触即発の事態になります。

官兵衛は長政と共に家康の伏見に駆け付けていますが、この原因の1つに長政は自分を懲罰の対象とした三成を憎んでいたからだといわれています。

 

ならば官兵衛も通りは同じでしょう。

この争いは家康と利家が和睦を結んだことで最悪の事態は避けられましたが、間もなく利家が亡くなると長政は利家派だった加藤清正や細川忠興らも巻き込んで大坂の三成屋敷に襲い掛かります。

 

やがて関ケ原の戦いを迎えると、官兵衛は長政とは別行動をとって豊前に残ります。

この時三成から西軍加入の勧誘を受けますが、官兵衛は表向き中立の態度をとっておりのらりくらりとかわしています。

その間に国主が不在の九州を支配するよう独自で軍事行動を開始します。

 

後世、官兵衛が天下への野心を抱いていたとされるのはこの家康でさえも怪しんだ不可解な独断専行のためです。

しかし実際に官兵衛率いる義勇軍が行動したのは毛利輝元にそそのかされた大友義統(当時改易されて諸国を渡り歩いていた)が東軍方の城を攻めたからであり、やはり東軍寄りの態度をとったとみるべきでしょう。

 

その後官兵衛の軍は鍋島直茂、加藤清正を加えて九州の城を次々と攻略していき、中央から戻ってきた立花宗茂をも加えて薩摩の島津義久を攻めようとします。

どうも官兵衛は関ケ原に参戦した島津義弘とは別に九州で勢力を誇る義久の勢力を削ることを狙っていたようにもみえます。

これはおそらく家康の思惑であり、これにこたえられるのは官兵衛以外いなかったのでしょう。

 

しかし予想よりも早く家康と義久が和議を結んだので進軍を停止せざるを得ず、官兵衛は後世に野心家と言われるゆえんを作ってしまったのです。

そういう意味で官兵衛は不運な一面もあります。

もし関ケ原の戦いがもっと長引けば官兵衛も野心を抱いていたかも知れませんが、それを表に出す前に決着がついてしまったので真相は闇の中です。

 

戦後は恩賞もすべて固辞し政治に関わることもなく暮らします。

彼は自分の寿命もすべて計算の上で最後の軍事行動を起こしたのでしょうが、それが果たせないとなれば後は自然に死を待つばかりです。

1604年、官兵衛は伏見藩邸で亡くなります。

葬儀は官兵衛は愛したキリスト教の方式で行われました。

 

官兵衛は果たして野心があったのか?

官兵衛が天下への野心を見せたのだとしたらそれは最後の数年間のみでしょう。

それまではいたって普通の大名として過ごしています。

 

彼は幼少期から下克上が当たり前の環境で育ったので、自身もそれを体感し実行に移すことも決して不可能ではなかったでしょう。

しかし世界的な視野で物を見るようになったのはキリスト教に帰依してから。

もし秀吉がもっと早く亡くなり日本で戦乱が続いていたら或いは官兵衛も戦国大名としてどこかの地で台頭していたかもしれません。

 

ですが官兵衛は自分に勝る秀吉や家康がいたので野心の芽が出る前に別の生き方を探ったのだと思います。

 

或いは必死に尽くした秀吉が自分に対してあまりにもぞんざいな扱いをしたので、官兵衛の中で諦めと怒りにも似た感情が沸き、それが関ケ原で家康につくという選択に至らせついに自ら挙兵という方法をとったと考えても面白いです。

 

ですが著者は官兵衛が何より望んだのは諸将と同じ戦乱の終わりだと思います。

官兵衛がいた九州ではそういう視点で物を見ている大名が少なかったので、自分が動くしかないと判断したのでしょう。

もし家康もこの世にいなかったら、官兵衛は違った形で行動していたかもしれません。

 

 

 

黒田官兵衛(如水)の最期

官兵衛の晩年の逸話として、家臣が早く長政の代になってほしいと思うように、わざと家臣に対してきつくあたるようになったという話が残っています。

そして、関ヶ原の合戦後、長政が自分の活躍で関ヶ原の合戦で勝つ事ができたと、家康が自分の手を取って喜んだという報告に、空いた方の手でなぜ家康を刺し殺さなかったのか?と問うたとも言われています。

 

この辺りの逸話が、腹黒い策略家という官兵衛のイメージに繋がっていますね。

官兵衛は関ヶ原の戦いの4年後に京都伏見の屋敷で亡くなります。

 

死因は梅毒とも言われていますが、ハッキリした事は分かっていません。

ただ、『人間五十年』と歌われた時代に、官兵衛はは59歳まで生きています。

 

そして、秀吉の命により一度は棄教しますが、キリスト教に対する思いは強かったようで、長政にはキリスト教の教えに従って葬儀をするように遺言しています。

そのため博多では官兵衛の壮大な葬儀がキリスト教式で行なわれました。

 

現在、福岡に立派な官兵衛の墓が建っています。

 

黒田官兵衛墓

 

しかし、官兵衛の遺体はここには眠っておらず、官兵衛が葬られた場所はハッキリと分かってないようです。

 

辞世の句

晩年の官兵衛は福岡城の中に質素な屋敷を建てて、領民や領民の子供たちとも気軽に話しをするなど、悠々自適な暮らしをしていました。

そんな官兵衛の辞世の句と言われるのが下記の歌です。

 

思いおく 言の葉なくて ついに行く 道は迷わじ  なるにまかせて

 

戦国乱世を生き抜いた官兵衛の気持ちが表れている辞世で、私の大好きな歌です。

この頃の官兵衛は生きる事に執着する事もなく、悟りの境地に達していたのではないかとさえ思えるような辞世ですね。

 

『道は迷わじなるにまかせて』・・・・かっこよすぎます。官兵衛さん。

 

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