真田丸で注目される豊臣秀次と三条河原の悪逆塚!!

豊臣秀吉の後継者として秀頼が誕生するまでに権力を誇った豊臣秀次。

 

豊臣秀次は秀吉の姉の子供で、秀吉の後を継ぎ関白となります。

 

小牧長久手の戦いで惨敗した事や、悪行の数々から”殺生関白”という評判がついて回っていた秀次ですが、最近は善政を敷いた名君として再評価されてきています。

 

秀次が謀反人として秀吉に切腹を告げられた背景には、いったい何があったのでしょうか?

 

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豊臣秀次の評価

秀次は数々の悪行を働いていたとされ、

 

  • 農民を鉄砲で撃ち殺す
  • 辻斬りを繰り返す
  • 妊婦を殺害して胎児を引きずり出す

 

など、人の命を軽視した行動があったため殺生関白という異名を持っています。

 

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しかし、一方で秀吉から与えられた近江八幡の領地では善政を敷き、領民からも慕われていたと言われています。

 

性格

さらに諸大名との親交もあり、キリスト教の宣教師は『秀吉と違って人から愛される性格』、『穏やかで思慮深い』と評価しています。

 

合戦に出陣しては結果を残し、秀吉も秀次を養子に迎えて関白にしていことから、武将として人並み以上の資質を持っていたことは間違いありません。

 

現代では優れた能力を持った名君だったと再評価される動きがあり、数々の悪行を行った殺生関白というイメージを作ったのも秀吉による策略だったのではないかとさえ思えてきます。

 

歴史上の人物の評価は、勝者の歴史の中で編纂されたものなので、どこまで信用できるのかは微妙なところです。

 

私も、秀次は無能で凡庸な武将というイメージだったのですが、近江八幡の人々からは今も尊敬されていて、銅像まで建っていることを考えると、やはり優秀な人だったんだろうなと思っています。

 

そうすると、やはり秀吉のイメージ操作の影響が大きく、過小評価されている武将なのかも知れませんね。

 

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秀次事件と原因

1595年、秀吉は秀次に謀反の疑いがあるとして切腹を命じます。

 

秀次に謀反を起こす気があったのかどうかや、秀吉が切腹を命じることになった直接の原因についてはハッキリ分っていません。

 

ただ、秀吉が関白を秀次に譲った後に、実子である秀頼が生まれているので、何とか秀頼に後を継がせたいと思っていたのは確かです。

 

それが今回の大河ドラマ『真田丸』の中ではどのように描かれるのか?

 

監督であり脚本家である三谷幸喜さんの歴史観がどんな感じなのか楽しみです。

 

実際は石田三成も秀次の助命嘆願をしたと言われているので、秀次自身は本当に人望のある人物だったのかも知れませんね。

 

我が子の将来を案ずるあまり、秀次の存在が邪魔になり、色々と理由をつけて秀次を切腹に追い込む・・・晩年の秀吉ならやりそうなことです。

 

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秀次の最期

秀次は秀吉の養子でしたが、秀吉に実の子供・秀頼が生まれると、秀吉は秀次を遠ざけるようになります。

 

そして、秀次に謀反の疑いありという事で下した命令は切腹。

 

秀次は一旦、高野山に入った後に、福島正則から切腹という秀吉の命を伝えられています。

 

青巌寺の”柳の間”で腹を切り、切腹が終わると首は京都の三条河原に晒されます。

 

そして、その晒された首の前で一族郎党が処断され、埋葬した上に石櫃を置いて塚が築かれました。

 

この石櫃には『悪逆』という文字が彫られていたそうです。

 

そのため、塚は悪逆塚(畜生塚)と呼ばれ、長い間放置されていました。

 

このあまりに酷い扱いも、何としても秀次に非があったのだと民衆に刷り込むための秀吉の演出だったのかもしれません。

 

晩年は横暴な振る舞いが目立った秀吉。

 

もし、秀吉が自分の身勝手理由で秀次を排除したのだとすれば、悪逆という言葉は秀吉にこそ、似合うのかもしれませんね。

 

悪逆塚はしばらくの間荒廃していましたが、鴨川の工事の際に発見され、瑞泉寺というお寺を建てて供養されました。

 

この時、発見された秀次の首を入れていた石櫃は、悪逆という文字を削って今も秀次墓の一部として残っています。

 

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