立花宗茂と並び大河ドラマ化が待たれる九州最強の武将島津義弘!!

島津義弘は薩摩の大名・島津貴久の次男。

 

九州制覇戦、朝鮮の役、関ヶ原の退却戦などの戦では第一線で活躍しており、勇猛果敢な名将として天下に名を知られていました。

 

あまりの勇猛ぶりについた呼び名が「鬼島津」。

 

その戦上手ぶりに、豊臣秀吉や徳川家康が一目置いた武将でした。

 

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九州制覇の戦い

父の島津貴久が亡くなると島津家は兄義久が家督を継ぎ、義弘は軍事面で兄を支えていきます。

 

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豊後から遠征してきた大友軍と戦い(耳川の戦い)では見事に大友軍を打ち破り、島津軍の九州制覇を加速させます。

 

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九州制覇の戦いでは義弘が島津軍の総大将として転戦し、1583年肥後の阿蘇氏を降伏させ、1586年には豊後大友家の領地に侵攻を開始します。

 

また弟である島津家久が肥前の戦国大名・龍造寺隆信を沖田畷の戦いで討ち取るという武功を挙げ、さらに島津軍の九州制覇の勢いが増します。

 

反対に、島津家の勢いに窮地に陥っていた大友宗麟は、豊臣秀吉に援軍を要請。

 

義弘は、大友家の援軍要請に応じて出陣してきた豊臣軍と根白坂で激戦を繰り広げます。

 

しかし、これまでは連勝を重ねていた義弘ですが、豊臣軍との戦いでは自ら太刀を振るい敵陣に突撃する奮戦ぶりを見せても、大軍を擁する豊臣軍に勝利を収めることができませんでした。

 

秀吉の軍勢には敵わない・・・。

 

そう考えた兄・義久が秀吉に降伏することを決断したため、義弘もしぶしぶ豊臣秀吉に膝を屈することに同意します。

 

文禄・慶長の役

島津義弘は文禄・慶長の役にも参戦し、大激戦であった「泗川の戦い」では獅子奮迅の戦いぶりを示しています。

 

1598年明・朝鮮の連合軍を率いる董一元は20万の軍勢で島津軍に襲い掛かります。

 

対する島津軍は7000人で20万の大軍を撃退。

 

この戦いでは、敵軍40000人を討ち取ったと言われ、大戦果を残しています。

 

寡兵で大軍を破れた理由は島津義弘の軍略と用兵の巧みさ。

 

釣野伏せ(わざと負けたように見せて撤退し、追撃してきた敵を埋伏していた鉄砲隊で殲滅する戦法)と呼ばれる島津軍のお家芸が効果を発揮したとされています。

 

この戦果を聞いた徳川家康は「前代未聞の大勝利」と評し、以降、朝鮮の民衆たちの間で鬼石漫子(おにしーまんず)と言えば泣く子も黙ると恐れられたという説が残っています。

 

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉が亡くなり、天下を狙った家康は、上杉景勝を討伐するために東征を開始します。

 

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この時、島津義弘は家康から伏見城の防衛に参加して欲しいと頼まれていました。

 

家康との約束通り、義弘は1000の兵を率いて伏見城に入城しようとしますが、伏見城を守っていた鳥居元忠に『援軍は無用』と入城を拒否されてしまいます。

 

なぜ、鳥居元忠が島津義弘の入城を断ったのかは、ハッキリしていませんが、家康と鳥居元忠の間に連絡ミスがあったものと思われます。

 

伏見城に入城できず、行き場を無くした義弘は戦場で孤立するのを避けるため、やむなく西軍として関ヶ原に参戦。

 

西軍に参加することが本意ではなかったとされる義弘は、積極的に戦をせず、自軍に打ちかかってきた敵を打ち払うことだけに専念していたと言われています。

 

さらに石田三成の使者が参戦するよう督促に来た際、下馬せずに救援依頼をしたことに激怒し、石田三成の軍勢に加勢する事もありませんでした。

 

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戦意のまとまらない西軍は小早川秀秋の裏切りをきっかけに総崩れとなり敗走。

 

島津軍は退路を東軍に遮断され、敵中に孤立します。

 

この時義弘は背後に逃げるのではなく、正面の敵を突破して伊勢街道を退却する決意を固めます。

 

僅か300となっていた島津軍ですが、大将である義弘を薩摩に逃がす決意を固めた精鋭には東軍諸隊も気安く手を出せるものであはりませんでした。

 

義弘ら島津軍は、勇猛な事で知られる福島正則隊を突破。

 

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家康本隊の直前まで迫ると、転進して伊勢街道を南下します。

 

この時ばかりは徳川家康も、島津軍の勢いに胆を冷やしたことでしょう。

 

火の玉のように戦場を駆け抜ける島津軍の迫力に圧倒されていた東軍の兵士たちですが、徳川四天王である、井伊直政や本多忠勝、松平忠吉が我に返って追撃を開始します。

 

しかし、井伊直政は島津軍の捨て奸(すてかまり:撤退の途中で何人かがその場所に留まり、死ぬまで敵を足止めし、全滅したら次の数人が足止めする戦法)にあい腕を負傷、松平忠吉も鉄砲で撃たれて傷を負います。

 

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この島津軍の捨て奸戦法は大将の義弘だけが生き残れればいいという戦法。

 

そのため、義弘の甥の島津豊久や重臣・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなって討ち死にしてしまいます。

 

長寿院盛淳は義弘から陣羽織と軍配を譲り受け、自身が義弘の影武者となって戦ったとされています。

 

島津軍の壮絶な奮戦や捨て奸の戦法により、無事薩摩に帰り着いた島津義弘。

 

この敵中突破戦「島津の退き口」が徳川家康に島津軍の勇猛さを植えつけることになり、戦後の外交に大きく影響することになります。

 

立花宗茂との関係

義弘は関ヶ原を脱出して薩摩に逃げ延びる途中の船で、同じく関ヶ原の合戦に東軍として参加して自領に引き上げる途中だった立花宗茂の軍と遭遇します。

 

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立花宗茂と島津義弘には因縁があり、立花宗茂の実父・高橋紹運を岩屋城で攻め滅ぼしたのが島津軍でした。

 

この時、義弘には数人の供しかおらず、岩屋城の恨みを忘れていなかった立花家の家臣たちは義弘を討ち取る好機だと宗茂に進言します。

 

しかし、宗茂は僅かな兵で敗走する島津軍を討つことを良しとせず、無事に九州まで撤退するために義弘と友好関係を結んだとされています。

 

この時の義弘には立花軍と戦う兵力はありませんでした。

 

宗茂の命令1つで討ち取られても仕方がない状況。

 

そんな中で撤退の手助けをしてくれた宗茂の気遣いは、義弘にとって忘れられない恩義となったのではないでしょうか?

 

無事薩摩に帰り着いた義弘は、立花宗茂の柳川城が鍋島直茂の軍勢に攻められている事を知ると、すぐに援軍を出しています。

 

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まとめ

天下に薩摩の強さを知らしめた島津義弘。

 

薩摩に帰ってからは軍勢をまとめ徳川の討伐軍と戦えるように準備します。

 

そして戦の用意をしながら並行して家康との和平工作に注力。

 

この硬軟合わせた外交で、関ヶ原から2年後徳川・島津両家は和平にこぎつけ、本領安堵を勝ち取ります。

 

西軍に属しながら一石の領地も減らさず本領安堵に成功した島津家。

 

これは義弘率いる薩摩隼人が、的中突破で島津軍の強さを家康に見せつけたからこそ為し得たことではないかと思います。

 

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