九州で絶大な勢力を誇った戦国大名・大友宗麟。

宗麟には高橋紹運(じょううん)という、武勇に優れた家臣がいました。

 

その紹運の長子として生まれたのが立花宗茂。

宗茂は幼い頃に同じく大友氏の重臣であった立花道雪の元へ養子に出され、道雪の元で育ちます。

 

名将として名高い紹運と、雷神と称された道雪を父に持った宗茂は、二人の名将から色々な事を受け継ぎ、豊臣秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双のものなり」と称されるまでに成長します。

 

今回はこの鎮西(九州)無双と称された名将立花宗茂を紹介したいと思います。

 

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実父・高橋紹運との逸話

名将として名高い立花宗茂ですが、宗茂が名将として名を残せたのは二人の父の厳しい薫陶があったからこそ。

高橋紹運と立花道雪の今の時代では考えられないスパルタ教育があって、宗茂は名将へと育ちます。

 

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ある時、「高橋の家と立花の家が戦を起こすような事態になった場合なんとする?」と宗茂は紹運に問われました。

その時、宗茂は「高橋の家に味方する」と答えたそうです。

 

その答えを聞いた紹運はこのように厳しく教えます。

 

「養子に行ったらお前はもはや高橋の人間ではない。立花の先鋒となってわしを討ち取りに来い。」

 

「道雪殿は日頃から未練な態度を振舞う人間を嫌悪しているのでお前に不覚な行動があろうものならすぐさま断絶されるであろう。断絶されたならば、高橋の家に帰るのではなくこの刀をお前に授けるのですぐさま自刃しろ。」

 

これが、養子に出る我が子にかけた言葉でした。

この時、訓戒とともに紹運から授けられた刀を宗茂は終生身辺から離さなかったといわれています。

 

養父・立花道雪との逸話

次は義父となった立花道雪の訓戒。

立花道雪は高橋紹運以上に厳しい人物で、勇猛果敢な名将として知られていました。

 

宗茂は立花の家でも相当厳しく育てられたとされ、こんな逸話が残っています。

 

養子として入って間もない頃、養父道雪とともに山に散策に出かけた時に宗茂はトゲのついた栗を踏ん付けてしまいます。

足に激痛が走り、近習に栗を抜いてくれと頼むと、家臣の由布惟信は栗のトゲを抜こうとせず、逆に宗茂の足を踏みつけました。

 

激痛で叫び声をあげそうになる宗茂・・・。

しかし、近くに道雪がいて厳しい目で凝視していたため、宗茂は叫ぶこともできなかったと述べたそうです。

 

このように立花の家ではかなり厳しい目にあいながら成長していきます。

 

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強敵島津にも負けない戦いで対抗する

島津軍に惨敗を喫した耳川の戦い以降、大友家は衰亡の一途をたどります。

そんな中、養父・道雪は北九州で実父・紹運とともに戦い抜き、龍造寺や島津軍を破って筑後の半分以上を奪還する大功を立てます。

 

しかし、道雪は病を得て病死。

その後、筑後の大友軍の士気は一気に低下し、筑後で優勢であった状況が急変します。

 

道雪の死後、島津軍は総勢5万の軍勢で実父・高橋紹運が篭る岩屋城に殺到します。

紹運は奮戦むなしく岩屋城とともに玉砕。

 

この時、宗茂も立花山城に篭もり徹底抗戦をしていました。

宗茂は島津に降参するよう見せかけて本陣を攻撃するなど、奇襲戦法で数百人の首級をあげます。

 

また岩戸において、原田種実の部隊を急襲して、撤退させることにも成功します。

 

島津軍は高橋紹運との戦いで疲弊し、さらに宗茂の相次ぐ積極的な攻勢の前に退却を開始します。

 

これを好機と見た宗茂は、退却する島津軍を猛追撃。

多数の兵を討ち取り、その勢いで高鳥居城を陥落させ、岩屋城と宝満城の2城を攻略する大功を立てます。

 

その後、大友宗麟の要請で豊臣秀吉の軍勢が救援に来ると、宗茂は豊臣軍の戦陣に加わり、肥後竹迫城、宇土城などの城を次々と落城させます。

この宗茂の働きを聞いた秀吉は筑後柳川城主13万石の大名に取立て、宗茂を「忠義、武勇鎮西一である」と称賛します。

 

少数の兵力でも「奇襲」を使って敵を撹乱させる。

これが戦上手と言われる立花宗茂の真骨頂です。

 

文禄・慶長の役でも活躍

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵、文禄・慶長の役でも宗茂は武功を挙げ続けます。

文禄の役最大の戦いであった碧蹄館(へきていかん)の戦いでは宗茂は先陣を務め、小早川隆景と共に明軍を撃破しています。

 

碧蹄館(へきていかん)の戦いでは小早川隆景から「立花家の3000人は他家の10000人に匹敵する」と推薦されて先陣を務めています。

 

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また慶長の役で加藤清正が篭る蔚山城が明軍約30000人に包囲された時の事。

 

宗茂は自分の兵を引き連れて清正が篭る蔚山城救援に駆けつけ、兵を二つに分けて一隊で明軍に夜襲を仕掛けます。

その時に、別の500人が鉄砲隊を率いて敵軍を混乱に陥れるという作戦で、包囲している明軍を撃退するという戦功を挙げています。

 

また別の場所に陣を敷いている明軍に火計と伏兵を使って猛攻をかけ、明軍を撃退するなどしています。

この二つの戦役を通した活躍を聞いた柳川の民からは「鬼将軍」の異名で呼ばれたそうです。

 

こうした働きを見ても、宗茂が戦術を考えるのが得意で、少ない兵力でも抜群の働きをしていることが分かります。

 

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まとめ

立花宗茂は豊臣秀吉が「西国一の武将」と評価しただけあって、類まれなる戦のセンスを披露しています。

しかし関ヶ原の戦いで西軍に属したため柳川の領地を没収されます。

 

その後、数年間浪人として過ごして10年後には大名に復帰。

そして20年後には元の領地である筑後柳川城主に復帰しています。

 

関ヶ原の戦いで西軍に属して元の領地に返り咲いたのは、立花宗茂だけでした。

 

では、なぜ宗茂のみが大名に復帰できたのか?

それは、宗茂が武勇の誉れが高いだけでなく、諸将からの人望も厚い武将だったからだと言わざるを得ません。

 



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