織田信長が築城した安土城と小牧山城!!

織田信長が築城した城として有名な安土城。

 

琵琶湖を望む安土山の上に登場した絢爛豪華な天主閣は、領民の注目を集めました。

 

それもそのはず、安土城は戦うための実践的な城ではなく、領地を拡大した信長が自分の権力を誇示するために築城した見せるための城だと言われています。

 

一方、信長が一番初めに築城したとされる小牧山城は、美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜城)を攻め落とすために、一時的な城として築城されたと言われていました。

 

しかし、現在行なわれている発掘調査では、一時的に滞在する砦の様な造りではなく、三重の石垣を巡らせた本格的な城の造りであった事が判明しています。

 

今回は織田信長が築城した、この2つの城についての逸話をご紹介したいと思います。

 

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安土城

安土城は五重六階地下一階で、一階の形は不等辺八角形。

 

内部には天主閣には珍しい吹き抜けがあり、最上階は金箔がふんだんに使われた豪華な造りでした。

 

安土城外観

 

安土城の向かいには観音寺城という、六角氏が本拠地としていた総石垣作りの城があるのですが、もしかすると信長はこの城を手本にして安土城を築城したのかもしれません。

 

城の縄張り(設計)に関しては、当時の城というのは敵の侵入を防ぐために、道を細くしたり極端に折り曲げるなどするのが定石でした。

 

しかし、安土城は麓から主郭まで真っ直ぐに石段が伸びていて、実際に攻め込まれた際の防御力がほとんどありません。

 

安土城の大手道

 

つまり、信長は戦担った時の事を想定せずに安土城を築城しています。

 

天主閣が豪華なだけで戦の時に役に立たない城・・・・。

 

これは自国に敵を攻め込ませないという信長の自身なのか?

 

はたまた、有事の際には観音寺城に籠城するつもりだったのか?

 

どちらにしても、安土城は戦うための城ではなく、織田信長の勢いを他国に知らしめるために築城された『見せるための城』であったことは間違いありません。

 

安土城の逸話

見せるための城であった安土城。

 

その事を表すような逸話があります。

 

それは領民から入場料を徴収して、信長自ら安土城の本丸御殿を見学させていたという事実です。

 

これは信長なりの領民の心を掴むための策略なのか?

 

それとも単純にかっこいい城ができたから自慢したかっただけなのか?

 

ただ、普通に考えれば他国のスパイに入り込まれて、城の内部構造という最重要軍事機密を握られてしまう危険性もあることを考えると、信長が全く城の防御力を重要視していなかった事が分かります。

 

またある時には、信長は安土城のいたるところに提灯を設置して安土城をライトアップしたこともありました。

 

この信長の演出に領民は感動して、闇夜に照らし出される安土城を眺めていたと伝わります。

 

織田信長は自分の野望の実現に立ちはだかる対抗勢力には容赦ない態度を示しますが、意外と領民思いの部分もあったようです。

 

天守閣と天主閣

一般的にお城の最も目立つ建物は天閣と呼ばれますが、安土城に限っては天閣という表記になります。

 

これは信長が天守閣に居住空間を作って生活をしていたためです。

 

安土城の内部

 

勘違いしている方も多いのですが、城のメインとなる天守閣は、大名が生活をする場所ではなく、ただの物置(倉庫)でした。

 

実際に生活していたのは御殿と呼ばれる場所。

 

しかし、革命児信長は、天守閣の中に自分が生活するスペースを作り、そこで生活をしていたとされています。

 

そんな理由もあって、安土城では天守閣ではなく、天主閣という表記にされています。

 

小牧山城

一方の小牧山城は、織田信長が斎藤氏の稲葉山城を攻めるのに清洲城では不便と考えて、本拠地を移転させた城です。

 

この小牧山城は稲葉山城を攻め落とすまでの仮の本拠地という説が有力で、砦の様な簡易的な城だとされてきました。

 

しかし、近年行なわれた発掘調査では城の主郭を三重の石垣で囲った本格的な城であることが分かりました。

 

当時は熊本城や大阪城のように高く石垣を積み上げる技術がなかったため三重の石垣になっていますが、それでも信長が小牧山城を造った時で言えば、なかなかの技術だったのではないかと思います。

 

また、小牧山城の石垣の中から『佐久間』と書かれた石が発見されています。

 

これは信長の重臣であった佐久間信盛が担当した石垣であったと推測されます。

 

後に役に立たないと織田家を追放される佐久間信盛もこの頃は頑張っていたんです・・・・。

 

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信長は、稲葉山城を攻め落としてからは本拠地を稲葉山城に移転したため、小牧山城には4年という短い期間しか滞在していません。

 

しかし、信長亡き後に羽柴秀吉と徳川家康の間に起こる小牧・長久手の戦いで、この小牧山城は戦略上重要な役割を果たすことになります。

 

まとめ

現在、小牧山城と岐阜城では発掘調査が行なわれ、信長時代の遺構が次々と明らかになっています。

 

織田信長の城と言えば絢爛豪華な安土城が1番に思い出されますが、小牧山城や岐阜城といった城に注目してみるのも面白いかもしれません。

 

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