2017年の大河ドラマの主役・井伊直虎。

最近は戦国時代を生きた女性たちも漫画やゲームの影響で有名になってきてはいますが、その中でも直虎はマイナーな部類です。

 

そんな、超脇役であった井伊直虎が大河ドラマの主役に選ばれたというのは、地方で活動しているアイドルがいきなり紅白歌合戦に出場することが決まったようなもの(笑)。

言ってみれば、新人アイドルの超大抜擢です。

 

ここに着目したプロデューサーや脚本家の方々の見識には感服するばかりですね。

そこで、今回は井伊直虎がどんな人物だったのかを、初めての人にも簡潔にわかりやすく解説しちゃいましょう。

 

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井伊直虎とは?

まず最初に、『井伊直虎って何をした人?』、『どんな人生を歩んだの?』という部分が気になりますよね?

 

井伊直虎の人生を簡単にまとめるとこんな感じです。

 

  • 井伊宗家の一人娘・直虎(おとわ)として誕生。
  • 結婚を約束した恋人(亀之丞)が権力闘争の末に突然の失踪。
  • 家中が落ち着き、亀之丞が帰還するも別の女性と結婚してしまうという現実。
  • 直虎はショックから出家して生きることを決断。
  • 父親や曽祖父、亀之丞までもが戦乱で散り、井伊家は滅亡の危機を迎える。
  • お家のピンチに直虎が還俗して井伊家の当主となり、おんな城主が誕生する。
  • 結婚する事の出来なかった許嫁(亀之丞)の子供・虎松(井伊直政)を立派に育る。
  • 虎松(井伊直政)を徳川家康に出仕させ、井伊家を盛り返す。

 

箇条書きにすると伝わりにくいですが、調べてみると直虎は本当に壮絶な人生を生き抜いています。

 

直虎の誕生した井伊家は今川家の下についていたのですが、戦や権力闘争の末に、井伊家のほとんどの男性がこの世を去ってしまいます。

そこに残されたのが井伊直虎という女性と許嫁の子供である虎松。

 

直虎は許嫁の子供である虎松を育て、井伊家を立て直すことに奔走するわけですね。

 

ではもう少し詳しく、直虎という人物に迫ってみましょう。

 

次郎法師(おとわ)時代

井伊直虎という人物ががいつ生まれたのかは、正確にはわかっていません。

それどころか幼名も不明。

 

どんな性格で、どんな容姿で、どんな子供時代を過ごしたかという事も、実は全く資料として残っていないんですね。

なので、『おんな城主 直虎』で使われている『おとわ』という幼名も創作です。

 

父は遠江(とおとうみ)の国人・井伊直盛。

 

直盛は当時の井伊家の当主で、東海道随一の大名だった今川義元に仕えていました。

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直盛には一人娘の直虎しかいなかったために、従兄弟であり、直虎の幼なじみである亀之丞(後の井伊直親)を婿にして、井伊家を継がせる計画でした。

しかし、当時の井伊家は家中がまとまっておらず、小野政直という家臣が自分の息子と直虎を結婚させて、井伊家を乗っ取ろうと考えていました。

 

そこで政直は井伊家の主君である今川義元に、亀之丞の父親であ井伊直満が謀反を企てているという嘘の報告をし、直満を呼び出して討ち取らせます。

父親が謀反の疑いで粛清されると、その手は子供の亀之丞にも及びますが、亀之丞は何とか危機を脱出し、長野県の松源寺まで逃げ延びます。

 

生き延びるためとはいえ、自分の目の前から突然許嫁がいなくなってしまった直虎。

現代と違ってLINEや電話がない時代に、突然恋人と連絡が取れなくなるのは、とても辛かったと思います。

 

それから数年の月日が流れ、直虎は20代前半の年齢に(生まれた年が不明のため)。

当時の結婚適齢期はとうに過ぎていましたが、直虎は亀之丞を信じて待ち続けていました。

 

そんな時に、既に亀之丞は結婚していて子供もいるという情報が入ってくると、直虎は周囲の反対を押し切って出家してしまいます。

 

この時に名乗ったのが『次郎法師』という僧名。

当時は尼層は永久に還俗できないとされていたため、井伊家に何かあればすぐに還俗できるように『次郎法師』という僧名にしたとされています。

 

次郎法師というのは井伊家惣領が名乗った名前。

これは井伊家の参謀的な立場にあった南渓(なんけい)和尚のアイデアだったとも言われています。

 

こうして直虎は、女性でありながら次郎法師という男性の名前を名乗る事になります。

 

亀之丞(直親)の帰還

亀之丞(直親)を追い出す原因を作った小野政直が亡くなると、亀之丞は井伊家に戻ってきます。

 

直盛は亀之丞と直虎を結婚させようとしますが、直虎がこれを拒んだため、亀之丞は単独で井伊家の養子となり、奥山朝利の長女と結婚。

井伊家の後継者として直親と名乗ります。

 

この後、桶狭間の戦いで直盛が亡くなると直親が井伊家の当主となり、待望の男児である虎松(直政)が生まれています。

しかし、今度は直親が小野政次の謀略によって今川氏真に謀反の疑いをかけられ、弁明に向かう途中の掛川城下で襲撃されて命を落としています。

 

直虎は父親に次いで、幼なじみである元許嫁も失ってしまう事になります。

 

この時、虎松は満2歳。

何とか今川の追っ手からは逃げ延びますが、当然のことながら家督を継ぐには不足でした。

 

そこで前当主・直盛の遺児である次郎法師が還俗して後を継ぐこととなるのです。

次郎法師の正確な年齢はわかりませんが、夫となるはずだった直親が享年28歳なので、おそらく直虎は当時20代後半~30歳前後と推定されます。

 

次郎法師が「井伊直虎」と名乗るようになるのはこの時からで、ここに女城主・直虎が誕生します。

 

直虎の活躍

当主となった直虎の元に今川氏真が井伊谷一帯に対し徳政令を出していますが、直虎はこれを突っぱねました。

直虎は地主達と結託して井伊家による支配を強めようと考え、氏真は民意を反映して井伊家に介入しようと考えていました。

 

そして、この小さな政治的対立が、井伊家に波乱を呼び込むことになります。

直親が殺されたきっかけは、今川から派遣されていた与力の小野政次(道好)の讒言によるものです。

 

政次は直虎が当主になってからも引き続き井伊家に残って権力を握っていました。

1568年(永禄11年)、直虎は居城・井伊谷城を奪われてしまい力を失ってしまいます。

 

そこで直虎が頼ったのが、今川氏からの脱却を図っていた徳川家康です。

1570年、家康は直虎の嘆願を受け入れて道好の処断と井伊谷城の奪還を許可しました。

 

これにより、何とか故郷に戻ることができた直虎でしたが、今度は間もなく甲斐の武田信玄が三河に侵攻してくると、直虎は武田軍の山県昌景に井伊谷城を明け渡すしかなく、家康と共に浜松城に逃亡しました。

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1573年、勝利を重ねた信玄が突如病によって撤退を余儀なくされた時になって直虎はようやく井伊谷城を取り戻すことができました。

 

直虎の最期と虎松の出世

武田信玄がこの世を去ると、直虎は跡取りの事を考えて鳳来寺に逃がしていた虎松を井伊谷城へ迎えようとします。

そして、次に使える主君を徳川家康と定め、虎松を家康の元へ出仕させます。

 

鷹狩の帰りに虎松と対面した家康は、虎松を大変気に入り、万千代という名前を与えて小姓とします。

万千代は高天神城での武田勝頼軍との戦いなどで活躍。

 

この万千代が成長して井伊直政と名乗り、徳川四天王の1人として勇名を轟かせます。

 

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先述の通り直政にはちゃんと実母が生存しており、直虎はかつての父の婚約者とはいえ実の親子に連なる血縁があったわけではありません。

しかし、直虎は直政と「次期当主」としてできる限りの教育を施し、これから井伊家が徳川家を幕末まで支える強い基盤を築くことに貢献しました。

 

その意味では、直虎は大老・井伊家の開祖ともいうべきでしょう。

 

本能寺の変からおよそ2か月後の1582年(天正10年)8月、直虎は直政の活躍を見届けてこの世を去りました。

一説に享年49歳(46歳?)と伝わります。

 

直虎の墓はかつての許嫁である直親の隣に建てられますが、直虎は直親との婚約が破談となってからも、生涯未婚で通しています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

短期間とはいえ、直虎が育てた直政はもし歴史が変われば自分の子になったかもしれない男児です。

 

直政自身も父達の苦労を知ってか知らずか、凡庸などとはとても言い難い優秀な漢に育ちました。

直政はその後堂々と徳川家の主力を飾ったことからも、直親と直虎の井伊家復興の願いは達成されたといっていいでしょう。

 

直虎が活躍した期間はとても短く、彼女がいた地域もせいぜい静岡県、愛知県と地方史に留まるような人間です。

戦国時代の中には、女傑と呼べる人物は直虎だけでなく大勢います。

 

しかし、彼女がクローズアップされたのには、家族愛というテーマを持った「大河ドラマ」にはぴったりの人物だったからでしょう。

『おんな城主 直虎』も斬ったはったでは済まない戦国のドラマを描くという意味でとても楽しみです。

 

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