山田顕義(あきよし)_松下村塾生から日本大学の学祖へ!!

吉田松陰が主宰した松下村塾の最年少メンバーといわれる山田顕義。

 

松下村塾や吉田松陰の誕生地から少し奥に入った場所で生まれ、この誕生地の近くには小田村伊之助(楫取素彦)の旧宅跡もあります。

 

松下村塾生でありながら、花燃ゆでは山県有朋と同じく中盤まで出番はなし。

 

しかし、実はこの山田顕義は吉田松陰だけでなく、高杉晋作や大村益次郎といった長州藩の先輩の下で学び、禁門の変や功山寺決起といった重要な局面や出来事にはほとんど参加している、まさに長州の歴史と共に歩んできた人物です。

 

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吉田松陰の門下生に

山田顕義は長州藩士であった山田家の長男として生まれます。

 

山田家は藩政改革に手腕を発揮した村田清風と親戚関係で、明倫館に入学する事もできる身分でした。

 

実際に山田顕義は明倫館で剣術や兵学を学び、吉田松陰の松下村塾にも通っています。

 

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松下村塾に入ったのが15歳の時なので、松下村塾では1番年下の門下生となりました。

 

1番年下という事もあってなのか、高杉晋作や久坂玄瑞らと常に共に行動していて、明治に入ってからも先輩である伊藤博文や山県有朋の下で司法大臣を務めています。

 

もちろん山田顕義に用兵や軍事の才能、法律の知識があったことは間違いありませんが、こういった流れをみていると、山田顕義がいかに先輩達から可愛がられていたかが分かります。

 

ちなみに、子供の頃は比較的おっとりしたタイプの子供だったようで、ついたあだ名は『ハナタレ達磨』でした(笑)。

 

高杉晋作と共に

先程も書きましたが、山田顕義は長州藩の主要な出来事にはほとんど参加しています。

 

高杉晋作が結成した御楯組に参加した後、禁門の変では久坂玄瑞や寺島忠三郎、品川弥二郎らと共に戦っています。

 

四カ国連合艦隊との戦いや功山寺挙兵(回天義挙)にも参戦して、第二次長州征伐の時には藩海軍総督となっていた高杉晋作から軍艦の砲隊長に任命され、長州藩の勝利に貢献しています。

 

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山田顕義は実際に高杉晋作の作戦立案や用兵を間近で見て、後に大村益次郎の下でも軍略を学んだ事もあり、函館戦争の時には陸軍参謀兼海陸軍参謀という肩書きになっていました。

 

おっとりした性格の『ハナタレ達磨』から『陸軍参謀兼海陸軍参謀』とは凄い変り様ですね。

 

しかし、実際に山田顕義は肩書きだけでなく鳥羽伏見の戦いや函館戦争、西南戦争などでも兵を指揮して戦功を上げ、「用兵の妙、神の如し」と評されるだけでなく、『小ナポレオン』と呼ばれるまでの人物になっています。

 

こうして見てみると、山田顕義は高杉晋作と共に行動することが多かったことが分かります。

 

この2人は憧れの先輩と可愛い後輩といった関係だったのかもしれませんね?

 

日本大学の学祖

明治時代になってから、松下村塾の先輩である伊藤博文が第1次伊藤内閣を発足させると司法大臣になり、その後は黒田清隆、山県有朋、松方正義内閣でも続けて司法大臣を務めています。

 

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司法大臣として民法や商法などの法律を内閣に提出しているので、山田顕義は軍人としての勇ましさだけでなく、頭の良さも持ち合わせていた人物だという事が分かります。

 

Yamada_akiyoshi

 

イメージ的には何でも卒なくこなす、万能タイプのイメージです。

 

また、山田顕義は教育というものをとても大切にし、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の國學院大学)を創設しています。

 

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教育を何よりも重要視するのは師である吉田松陰と同じ考え。

 

山田顕義も吉田松陰の影響を色濃く受けていた人物であることが分かります。

 

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