第一次上田合戦_上田城の戦いに見る真田昌幸の戦略!!

真田昌幸が3倍以上の兵力で攻め寄せた徳川軍を撃退した第一次上田合戦。

 

第一次上田城の戦いとも呼ばれるこの戦いは、真田昌幸の武名と軍略を世に知らしめる合戦となりました。

 

上田合戦で真田軍が大勝した要因には、上田城の堅固さと、少人数で大軍を翻弄した真田昌幸の作戦の立て方にありました。

 

そんな訳で今回は、第一次上田合戦で兵力的に圧倒的不利だった真田軍が徳川軍を撃退した理由について考えてみたいと思います。

 

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第一次上田合戦までの流れ

天正10年、織田信長が甲州の武田勝頼を攻め滅ぼすと、真田昌幸は織田信長の傘下に入りました。

 

しかし、しばらくして本能寺の変が起こり織田信長が亡くなったため、信濃は北条氏直、徳川家康、上杉景勝といった3つの巨大勢力に狙われることになります。

 

そんな中、次に真田昌幸が主として選んだのが徳川家康で、真田家は徳川家の下で戦国の世を生き延びていく事を選択します。

 

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しかし、徳川家康と北条氏直の間に和睦が成立すると、家康は真田昌幸の所領である沼田と、北条氏の佐久を交換するという約束を結びます。

 

徳川家康は真田昌幸に領地を北条氏に差し出すように命じますが、昌幸はこれに反発します。

 

そもそも沼田の領地は昌幸自身が切り取ったものであり、徳川家康から拝領した領地ではありません。

 

この命令を不服とした昌幸は徳川家康と手を切り、上杉景勝と結びます。

 

この行動に激怒した家康が真田氏討伐のために軍勢を差し向け、これが第一次上田合戦の幕開けとなります。

 

上田城の戦い

鳥居元忠・大久保忠世らの武将を中心とした徳川軍は、7000の兵力で上田城に攻め寄せます。

 

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これに際して真田昌幸は領民を全員上田城内に籠城させ、領民と共に徳川軍に挑みます。

 

普段、領民の生活が苦しいと聞けば年貢を半減するなどの器の大きさを見せていた昌幸は、領民からも信頼されていたようで、籠城した民衆も真田家の武士と共に戦ったとされています。

 

そしてこの時に昌幸が取った作戦は、とにかく徳川軍を引き付けて戦う事。

 

兵力が圧倒的に少ない以上、戦線を広げてしまえば大軍に勝ち目はありません。

 

そのため昌幸は、おとりの兵にわざと敗戦を演じさせ、徳川の大群を上田城の二の丸まで攻め込ませます。

 

そして狭いスペースに踏み込んで身動きが取れなくなった大軍に一斉に鉄砲を撃ちかけ、温存していた兵も出陣させ、徳川軍をいっきに殲滅します。

 

大混乱に陥った徳川軍は撤退。

 

しかし、攻め込む際は難なく攻め込めた上田の城下町ですが、逃げようと町に入り込むと、いたるところに柵がもうけてあり、城下町は迷路のようになっていました。

 

そこへ真田軍が火を放ち、城下町は炎に包まれます。

 

さらに上田城の近くにある砥石城を守っていた長男の真田信之も徳川勢に攻めかかり、多くの徳川軍を打ち取りました。

 

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この第一次上田合戦、徳川軍の犠牲者は1300人で、真田軍の犠牲者は40人だったとされています。

 

徳川家の敗北

この第一次上田合戦の時の様子を書き記した書物があります。

 

徳川家康の家臣で、上田合戦に出陣していた大久保彦左衛門は『三河物語』に敗走時の様子を、

 

わが軍は腰が抜けて打って出ようという者がおらず、役に立たなかった。

 

と記しています。

 

この後、徳川家康は井伊直政らの援軍を送りますが、越後から上杉景勝の援軍が到着するなど戦況が不利になってきたため、撤退の命令を出します。

 

これにより、第一次上田合戦での真田軍の勝利が確定し、僅か2000の兵力で7000の徳川軍を撃退した真田昌幸の武名は世に知られることとなります。

 

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難攻不落の上田城

そして、第一次、第二次上田城の戦いと、2度に渡って徳川勢を退けた城として有名になったのが上田城です。

 

上田城

 

しかも、第一次上田合戦の頃はまだ完成していなかったともされています。

 

では何故そんな城で徳川の大群を撃退する事ができたのか?

 

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それは未完成だったとは言え、真田昌幸が知恵を絞って築城した、攻めにくく守りやすい城だからと言うより他にありません。

 

上田城は『天守閣もない城』と侮られていたようですが、実際は千曲川の尼ヶ淵という断崖に建てられていて高い防御力を誇っている城でした。

 

地形的に徳川軍が攻めてくるとすれば東側から。

 

そう考えた昌幸は東側の守りに専念し、城下町に柵を設けるなどして戦に備えました。

 

数で劣る場合は兵力を分散せずに一点に集中して戦う。

 

この戦略で真田軍は徳川家に大勝しました。

 

ちなみに上田城は真田昌幸が徳川家康の傘下だった頃に、家康の援助を受けながら建築を始めた城。

 

徳川家康からしてみると、自分の援助で建てられた城で手痛い敗北を喫したとなると、その悔しさは計り知れないものがあったでしょうね。

 

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