前田慶次郎利益(まえだ けいじろう とします)は、戦国時代一の傾奇者(かぶきもの)と呼ばれる人物で、勇猛果敢な武将としても知られています。

 

NHKの木曜時代劇『かぶき者慶次』でも取り上げられていますが、少年ジャンプに連載され、パチンコなどでも有名な『花の慶次』の主人公といえば知っている方も多いのではないでしょうか?

 

前田慶次は出生などの不明な部分が多い武将ですが、真田信繁(幸村)や織田信長と並ぶほどの人気を博しています。

今回はその前田慶次の魅力や逸話、傾奇者(かぶきもの)と言われる理由について迫ってみたいと思います。

 

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花の慶次でも有名な傾奇者

前田慶次は国持ちの大名になる事を望んだり、天下を取るという野望を持っていた武将ではありません。

京都の文化人と交流し、歌を詠んだりしながら悠々自適な生活を好んでいたため、あまり多くの資料が残っておらず、不明な部分もたくさんあるのが事実です。

 

というよりも、一国を預かる戦国大名ではないので、あまり歴史の中で重要視されるような人物ではなかったといった方がいいのかもしれません。

 

では何故現代でこんなにも人気のある武将になったのか?

 

それは、前田慶次を題材にした隆慶一郎(りゅうけいいちろう)の小説『一夢庵風流記』と、それを元に書かれた『花の慶次』が大きく影響していると言えます。

おそらく、花の慶次というマンガがなければ、前田慶次という人物はここまでの人気を得ることはなかったでしょう。

 

前田慶次に関する一次資料は少なく、江戸時代に作られた講談本のようなものに書かれた逸話が多いです。

そのため、現代の前田慶次のイメージはそれらをまとめた『一夢庵風流記』と『花の慶次』によって作られたと言っても過言ではありません。

 

かぶき者って何?意味を簡単に解説!

傾奇者(かぶきもの)とは、「派手で異風な格好をして常識にとらわれない行動をとる者」という意味。

織田信長や前田利家も若かりし頃は傾奇者だったと言われているので、戦国時代から若者が目立ちたがる傾向というのはあったようです。

 

今でも若者が派手な格好をしたり、車やバイクを改造して目だった行動をとりたがることがありますよね?

おそらく、当時の傾奇者は現代で言えばそんな感じです。

 

悪い言い方をすれば自己顕示欲の強い目立ちたがり屋。

言ってしまえば、いたずら好きの悪がきがそのまま大人になってしまったのが前田慶次という人物かもしれません。

 

前田慶次郎の功績を解説

前田慶次は織田信長の重臣であった滝川一益の一族のであるとされていますが、父親など詳しい事は分かっていません。

やがて前田利家の兄である荒子城主・前田利久の元へ養子へとして入り、利久から家督を譲られ荒子城とその領地を受け継ぐはずでした。

 

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しかし、病弱だったとされる利久に対して、織田信長は隠居を命じ、その家督は弟の利家が継ぐことになりました。

 

これは織田信長がお気に入りだった前田利家に頼まれて命じたとも言われています。

(織田信長と前田利家は男色関係にあった。)

 

利家が前田家の家督を継いだ後は利家の下で働き、小牧・長久手の戦いの際は末森城の救援に向かい、佐々成政の軍勢と戦っています。

 

やがて、利家との仲が不和になり前田家を出奔。

それ以降は京都で悠々自適の日々を過ごし、数々の文化人と交流しています。

 

そのため、お茶を立てたり、歌を詠むなど、かなり高い教養人としての素質を身に付けていたようです。

そして、生涯の友となる直江兼続と出会い、兼続の主であった会津120万石の戦国大名・上杉景勝に仕える事になります。

 

長谷堂城の戦い

関ヶ原の合戦時は最上義光の領地に侵攻し、直江兼続と共に長谷堂城の攻略を始めます。

結果的に関ヶ原で西軍が敗退し、直江兼続の軍勢は長谷堂城からの退却戦を行うことになるのですが、この時最後尾に残り獅子奮迅の活躍をしたのが前田慶次です。

 

前田慶次は朱色の大きな槍を振るって奮戦し、迫りくる最上勢を翻弄したと言います。

現代も残る最上義光の兜には銃弾の跡が残っていて、その銃弾はこの長谷堂城の戦いの最中に受けたものだとされています。

 

この時、最上義光と同じ東軍に属していた伊達政宗も、直江兼続を討ち取る好機だと兵を派遣していました。

前田慶次の活躍で直江兼続が撤退戦を完了させると、政宗は『最上の兵が弱すぎて直江兼続を逃がした』といったそうですが、この時ばかりは最上義光の兵が弱いのではなく、前田慶次の武勇が凄すぎたのかもしれません。

 

隠居暮らしと慶次の最期

関ヶ原の合戦で敗れた上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封されます。

これは、今まで1200万円の収入があった会社が300万の収入しかなくなるという事なので、普通であれば家臣のリストラが必要となります。

 

それでも当主であった上杉景勝は家臣をリストラすることなく、全ての家臣を米沢に連れていきます。

もちろん家臣たちの給料は大幅カット。

 

それでも前田慶次は上杉家を離れることなく米沢に移り、小さな庵を構えて直江兼続や領民らと悠々自適な生活を送ったとされています。

前田慶次は一般的に米沢の堂森という場所で最期を向かえ、一花院に葬られたとされていますが、実際に慶次郎につき従っていた家臣は違う記録を残しています。

 

それによると、慶次郎は大和国で亡くなり、刈布にある安楽寺に葬ったとされています。

 

そして、

 

廟を築いて石碑を建て、そこに『竜砕軒不便斉一夢庵主』と印した。

生前の名前と没年などは訳あって記さなかった。

前田慶次が亡くなったことを知る人はいないだろう。

 

としています。

 

もしかすると、こういった部分にも傾奇者の前田慶次らしい遺言があっての事かもしれませんね。

 

上杉景勝との逸話

前田慶次は直江兼続を終生の友と思い行動を共にしたのではなく、上杉景勝に対しても『自分の主君になるのは景勝しかいない』という思いを抱いていたようです。

 

前田慶次が上杉景勝に仕えることを決めた時の逸話が伝わっています。

 

ある時、豊臣秀吉が諸大名を招いて宴席を設けていた時、慶次もこの末席にいたと言います。

この時慶次郎は周囲を盛り上げるためなのか、突然猿まねを始め、ふざけながら諸大名の膝に座るなど悪ふざけをしていました。

 

『サル』と呼ばれた秀吉の前での猿まねとあって、諸大名の間にも緊張が走りますが、秀吉が笑って見ていたためその場は愉快な雰囲気になっていたそうです。

しかし、悪ふざけをしながら居並ぶ大名に絡んでいく慶次にも、1人だけ近寄れない大名がいました。

 

その人物が生涯でもほとんど笑うことがなかったとされる上杉景勝。

慶次は上杉景勝に侵しがたい威厳を感じ、そのオーラに圧倒されて近づくことが出来なかったと言われています。

 

天下人である秀吉をも恐れなかった慶次郎が感じた上杉景勝の威厳。

この時に慶次は、上杉景勝に人の上に立つもののオーラを感じ、景勝に仕えることを決めたようです。

 

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