毛利元徳(定広)_文を嫡男の守役にした長州藩最後の藩主!!

『そうせい候』、毛利敬親の後を継いで第14代の長州藩主となる毛利元徳(もとのり)。

 

あまり自分の考えを表に出さず、家臣に政治を任せていたと言われる敬親と異なり、改革派寄りの考えを持っていたと言います。

 

今回は人々からの人望も厚く、明治維新後にも活躍した毛利元徳に迫ってみたいと思います。

 

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長州藩14代藩主

毛利元徳は長州藩の支藩である徳山藩主の10男として生まれ、毛利敬親に跡継ぎがいなかったため、養子となり長州藩の藩政に参加していきます。

 

若さもあっての事なのかもしれませんが、元徳は敬親と違い改革派の路線を指示していました。

 

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そのため、松下村塾の門下生に理解を示し、その中でも高杉晋作のことを買っていたようです。

 

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年齢が近い事もあるかもしれませんが、高杉が暴走した時には説教をしたり、脱藩をしようとした時には手紙を書いて諭したりもしています。

 

元徳にとって高杉晋作という人物は、家臣の中で最も頼りになり、最も気の合う存在だったのかもしれません。

 

禁門の変が起こった時には、自ら兵を率いて上洛をしようともしているので、ただ物事の経過を見守るというだけでなく、行動力も持ち合わせていた人物だったと言えます。

 

文を守役に

元徳が松下村塾生に理解を示していたと感じさせる最大のエピソードが、吉田松陰の妹・文を嫡男の守役に抜擢した事です。

 

毛利元徳と妻・安子(銀姫)との間には元昭(もとあき)が生まれますが、その時に安子に仕えていた文を元昭の教育係に任命しています。

(この時、文は久坂美和と名乗っていた。)

 

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自分の世継ぎの教育係りに、吉田松陰の妹である文を選んだというのは、少しでも松陰の考えを元昭に注ぎたいという想いからだったのではなでしょうか?

 

少なくとも、吉田松陰という人物をよく思っていなければ、その妹を子供の教育係に任命するはずはありません。

 

こういった事からも、元徳は吉田松陰の考えや、志を受け継いだ門下生たちと近い想いを抱いていたのではないかと思います。

 

明治維新後

自身が藩主を務める長州藩の大きな働きがあり、明治政府という新しい政府が誕生します。

 

しかし、その政府がおこなった廃藩置県により、長州藩という藩が消滅してしまうことになります。

 

毛利元徳が敬親から藩主の座を譲られてから2年後の事なので、実際に元徳が藩主として政治を行った期間は僅かです。

 

それでも、元徳の才覚が埋もれてしまうことはなく、岩倉具視らの有力華族が中心となって作った第十五国立銀行の頭取に就任するなど、明治の世でも活躍しています。

 

明治29年に亡くなると、その葬儀が国葬として執り行われている事からも、元徳がいかに人々から信頼を集め、明治の世に大きな功績を遺したかが分かります。

 

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