豊臣秀吉の下で出世を遂げていった石田三成。

秀吉亡き後、豊臣政権に取って代わろうとする徳川家康に対抗した人物です。

 

しかし、普段の横柄な態度や傲慢な性格の影響で人望はなく、諸大名をまとめる統率力に欠けていたとされています。

今回はこの三成の逸話をご紹介したいと思います。

 

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羽柴秀吉と三成の出会い

石田三成と羽柴秀吉の出会いは、秀吉が長浜城主になったばかりの頃です。

領内で鷹狩りをしていた秀吉は喉の渇きを覚えたため、寺に立ち寄り茶を所望します。

 

対応に出てきた寺の小姓は初めに大きな茶碗にぬるめの茶を秀吉に提供しました。

秀吉は喉が渇いていたため一気に飲み干し、再び小姓に茶を所望します。

 

すると小姓は少し熱めの茶を秀吉に差し出しました。

秀吉はこの茶も飲み干し再び小姓に茶を求めました。

 

最後に茶をもって現れた小姓は小さな茶碗に熱めの茶を入れて、秀吉に提供しました。

秀吉は息を吹きかけ、ゆっくりと飲み干したそうです。

 

これは、最初は喉が渇いているので、一気に飲み干せるようにぬるく多めのお茶を注ぎ、最後は喉の渇きも癒えているので、量を少なくして熱めのお茶を注ぐという気遣い。

 

秀吉はこの小姓の配慮が気に入り、この寺の和尚に掛け合い小姓を貰い受けました。

この小姓が後に石田三成と名乗り、秀吉の天下取りを支えていく事になります。

 

 戦は苦手だけど実務は得意

一般的な石田三成のイメージは内政の手腕は抜群でも戦は下手というもの。

秀吉の下で数々の戦功を上げた加藤清正や福島正則と比べると、石田三成には特別目立った戦功というのは聞きません。

 

そればかりか、豊臣秀吉の小田原征伐の際に命じられた忍城攻めでは、備中高松城攻めの時の秀吉のように、大規模な水攻めを決行しながらも、最後まで忍城を落とすことができませんでした。

 

こういった事から、石田三成は戦下手だというイメージが付いたものと思われます。

 

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一方、戦の際の兵糧確保や輸送面などでその実力を発揮し、検地や刀狩り、キリスト教の取り締まりなどの内政面での活躍では目を見張るものがあります。

 

戦場に出て猪突猛進する猛将ではなく、そろばん勘定を得意とする実務官僚。

これが石田三成の武将としてのスタイルです。

 

 

秀吉の下で絶大な権力

いつも秀吉の側にいて、諸将との取次ぎを仕切っていた三成は、諸大名からも一目置かれる存在になっていきます。

当時、中国地方一帯を支配していた戦国大名・毛利輝元も、「石田三成にはとても気を使う」という書状を残しています。

 

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また、九州の戦国大名・島津義弘も「石田三成の権勢は絶大で、匹敵する人はいない」と語っています。

豊臣政権の実務を担当する五奉行の筆頭というだけでなく、秀吉の右腕として各種調整も行っていた石田三成。

 

秀吉に対して下手に出たり、取次ぎを頼んでくる諸大名を見て、態度が大きくなり、傲慢な人物になっていったのかもしれません。

権力者のすぐ側にいると、自分も偉くなった気分になってしまうという事は現代でもよくある事ですよね。

 

大谷吉継と関ヶ原の戦いをおこす

豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が天下への野心を露わにします。

当時、豊臣政権の中心人物だった石田三成はこの状況に危機感を感じ、前田利家などと協力して、何とか徳川家康と対抗していました。

 

しかし、前田利家が亡くなると、家康の専横を抑えられる人物はいなくなり、舞台は関ヶ原の合戦へと進んでいきます。

 

僅か19万石の大名であった石田三成が周囲の大名を巻き込んで、255万石の大大名だった徳川家康に戦いを挑むことになるとは、さすがの秀吉も予想していなかったのではないでしょうか?

 

この時に石田三成の盟友となり、関ヶ原で最期を向かえる大谷吉継が言った下記の忠告はあまりにも有名です。

 

「あなたは知恵才覚はあるが勇気がない。そして、横柄で傲慢なため人望がない。」

「人の上に立つためには人望が必要なので、大将に毛利輝元、副将に宇喜多秀家を立てて、あなたは表に出ないように。」

 

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江戸時代中期に描かれた『常山記談』に描かれた逸話なので真偽のほどは定かではありませんが、石田三成のイメージを決定づける逸話として知られています。

 

石田三成の墓の発掘調査

関ヶ原の合戦に敗れた石田三成は六条河原で最期の時を迎えます。

その後、大徳寺三玄院に埋葬されるのですが、明治40年に石田三成の墓で発掘調査が行われました。

 

その時に発掘された頭蓋骨などから石田三成の顔を復顔させるという作業がされ、大阪城の天守閣には復顔された石田三成の顔の肖像画が展示されています。

 

その他にも発掘調査の結果、三成の身長は156cm程度で、女性のように華奢な体、顔は細長で鼻が高かった事が分かっています。

石田三成と同時代を生きた徳川秀忠の墓も発掘調査が行われていますが、発掘された骨などから、骨格や筋肉が発達していて、戦国武将らしく鍛え上げられた体だったという事が判明しています。

 

徳川秀忠もあまり戦が得意という印象はありませんが、それでも日ごろの鍛錬は行っていたようです。

それに比べて石田三成の、女性のように華奢な体ということからは、三成が体を鍛えることにはあまり熱心ではなく、ひたすら実務に励んでいたという姿を思い浮かべることができます。

 

 

大谷吉継との友情の逸話

ある時、豊臣諸侯が集まった茶会が行われ、この茶会にハンセン病に犯されて顔面がボロボロになっていた大谷吉継も出席していました。

そして、諸将が回していた茶椀が大谷吉継に回ってきた時、不覚にも膿が茶碗に入ってしまいます。

 

その場の諸侯はしっかりとそれを目撃しており、次に茶碗を受け取った武将は、病気がうつる事を気にして茶を飲むに飲めない状況でした。

大谷吉継は悔しさと恥ずかしさを感じながらも、その場にいたたまれない気持ちで座っているしかできません。

 

その時、突然石田三成が立ち上がり、『拙者、喉が渇いたので先に茶を頂きたい』と、茶碗を受け取り、膿が入っていることを全く気にする素振りを見せずにグイっと一気に飲み干たと言います。

 

大谷吉継に恥をかかせないための三成の配慮でした。

その光景を見ていた吉継は屋敷に帰った後、石田三成の行動に感動しその後三成との交誼を厚くし、固い絆で結ばれたそうです。

 

この話は創作の可能性も高いですが、三成が信義に熱い武将であることを表しているエピソードの1つです。

 

最後まで豊臣家のために戦う

関ヶ原の合戦で敗れ、捕えられた時の三成の逸話が残っているのですが、この逸話は、三成がどれだけ豊臣家に恩義を感じていたかが分かるものです。

関ヶ原の戦いに負け、伊吹山山中で捕らえられた石田三成は大津に護送されます。

 

その後、三成は本多正純に預けられ、こんな会話を交わしています。

 

正純「秀頼がまだご幼少であられるので、事の是非わかるものではない。それなのに私心の為に戦を起こして、このような恥ずかしめを受けるはめになってのではないか?」

 

三成「我が農民に生まれてから一国の主にまでなれたのは太閤の御恩によるものである。天下の状況を見るに、徳川殿を討たねば豊臣家の行く末に良くないと思い挙兵したのである。二心あって戦を起こしたわけではない。勝つべき戦で敗れたのは口惜しい限りである。」

 

また、京の都を小西行長、安国寺恵瓊と共に引き回されているとき、徳川家康から小袖を与えられます。

小西行長、安国寺恵瓊は小袖を見て落涙しますが、三成は「これは誰が与えたものだ」と役人に尋ねました。

 

すると役人は江戸の上様だと答えます。

これを聞いた三成は、「上様というのは秀頼公唯一人だ。いつから家康殿が上様になったのだ?」と役人を怒鳴りつけたそうです。

 

三成は家康に豊臣家を滅ぼされるという危機感を持ち、また豊臣家から受けた恩に報いるために挙兵したのだという事が良く分かる逸話です。

 

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